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蠅男 - 海野 十三 ( うんの じゅうざ )

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   発端  問題の「(はえおとこ)」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。  只(ただ)われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息(せいそく)していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
 まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板(どぶいた)の下に三日前から転がっている鼠(ねずみ)の死骸(しがい)にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕(おどろ)くべきものが、誰にも知られることなく密かに埋没(まいぼつ)されているのである。
 この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句(いちごんはんく)も誰にも喋(しゃべ)りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。
 それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?
 それは、臭(にお)いであった。
 煤煙(ばいえん)の臥床(ふしど)に熟睡していたグレート大阪(おおさか)が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭(いや)な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。


   妙(みょう)な臭(にお)い


 大阪人早起きだ。
 それは師走(しわす)に入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた家では天窓がゴソリと引き開けられた。旅館でも病院でも学校でも、鎧戸(よろいど)の入った窓がバタンバタンと外へ開かれ、遠くの方からバスのエンジンの音が地響をうって聞えてくる。……
「なんやら。――怪(け)ったいな臭(かざ)がしとる」
「怪ったいな臭?――やっぱりそうやった。今朝からうちの鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。――ほんまに怪ったいな臭やなア」
「ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ」
 旅館の裏口を開いて外へ出たコックとお手伝いさんとは、鼻をクンクンいわせて、同じような渋面(しぶつら)を作りあった。
 ここは大阪南部住吉区(すみよしく)の帝塚山(てづかやま)とよばれる一区画の朝だった。
「この臭(かざ)は、ちょっとアレに似とるやないか」
「えッ、アレいうたら何のことや」
「アレいうたら――そら、焼場の臭や」
「ああ、焼場の臭?」お手伝いさん白いエプロンを急いで鼻にあてた。「そうやそうやそうや。うわァこら焼場の臭(にお)いやがナ」
 そのうちに、臭いを気にする連中が、あとからあとへと起きてきて、てんでに廂(ひさし)を見上げたり、炊きつけたばかりの竈(かまど)の下を気にしたりした。だがこの淡い臭気が、一たい何処から発散しているものか、それを突き止めた者は誰もなかった。
 ワイワイと、近所の騒ぎはますます激しくなっていった。しかも臭気はますます無遠慮(ぶえんりょ)に、住民たちの鼻と口とを襲った。
 東京ビジネスセンター有楽町事務所をもつ有名青年探偵帆村荘六(ほむらそうろく)も、この騒ぎのなかに、旅館蒲団(ふとん)の中に目ざめた。彼は或る重大事件調査のため、はるばるこの大阪へ来ていたのだった。そして昨夜から、このマスヤ旅館宿泊していた。
「――や、どうも。帝塚山はたいへん静かだという話だったが、こう騒々しいところをみると、あれはわざと逆の言葉を使って、皮肉飛ばしたつもりなのかしら」
 彼は寝不足の充血した目をこすりながら、起きあがった。そして丹前(たんぜん)を羽織(はお)ると、縁側に出て、雨戸ガラガラと開いた。とたんに彼は、狆(ちん)のように顔をしかめて、
「おう、臭(くさ)い。へんな臭(にお)いがする」
 と吐きだすように云った。
 前の往来で、臭(かざ)評定をしていた近所のうるさ方一同は、突然ガラガラと開いた雨戸の音に愕(おどろ)いて、ハッとお喋りを中止したが、帆村が自分たちと同じように鼻をクンクンいわせているのを見上げるや、一せいにニヤニヤ笑いだした。
「お客さん。怪(け)ったいな臭がしとりますやろ」
「おう。これは何処でやっているのかネ。ひどいネ」
「さあ何処やろかしらんいうて、いま相談してまんねけれど、ハッキリ何処やら分らしめへん。――お客さん、これ何の臭(かざ)や、分ってですか」
「さあ、こいつは――」
 とはいったが、帆村はあとの言葉をそのまま嚥(の)みこんだ。そして彼は帯を締めなおすと、トントン階段下りて、玄関から外に出た。
「えらい早うまんな。お散歩どすか」
 奥から飛んで出てきた仲働きのお手伝いさんが、慌(あわ)てて宿屋焼印(やきいん)のある下駄(げた)を踏石の上に揃えた。
「ああ、この辺はいつもこんな臭いがするところなのかネ」
「いいえイナ。こないな妙な臭(かざ)は、今朝が初めてだす」
「そうかい。――で、この辺から一番近い火葬場は何処で、何町ぐらいあるネ」
「さあ、焼場で一番ちかいところ云うたら――天草(あまくさ)だすな。ここから西南に当ってまっしゃろな、道のりは小一里ありますな」
「ウム小一里、あまくさですか」
「これ、天草の焼場の臭いでっしゃろか」
「さあ、そいつはどうも何ともいえないネ」
 帆村は「行っておいでやす」の声に送られて、ブラリと外に出た。別に彼は、この朝の臭気を嗅いで、それを事件と直覚したわけでもなく、またこんな旅先で彼の仕事とも関係のないことを細かくほじくる気もなかった。けれど、彼の全身にみなぎっている真実を求める心は、主人公の気づかぬ間に、いつしか彼を散歩と称して、臭気(しゅうき)漂(ただよ)う真只中(まっただなか)に押しやっていたのだった。
 それは一種|香(かん)ばしいような、そして官能的なところもある悪臭だった。彼は歩いているうちに、臭気がたいへん濃く沈澱(ちんでん)している地区と、そうでなく臭気の淡い地区とがあるのを発見した。


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