血曼陀羅紙帳武士 - 国枝 史郎 ( くにえだ しろう )
腰の物拝見
「お武家お待ち」
という声が聞こえたので、伊東|頼母(たのも)は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の月が、朧(おぼ)ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を辿(たど)って来たのであったが、いつどこで道を間違えたものか、こんなところへ来てしまったのであった。声は林の中から来た。頼母はそっちへ眼をやった。林の中に、白い方形の物が釣ってあった。紙帳(しちょう)らしい。暗い林の中に、仄白く、紙帳が釣ってある様子は、巨大な炭壺の中に、豆腐でも置いたようであった。声は紙帳の中から来たようであった。
塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の身長(たけ)が高いので、紙帳を背後(うしろ)にして立った形(すがた)は「中」という字に似ていた。
「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。
「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。
「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ! 成らぬ!」
「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」
「黙れ! 無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ!」
「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか天国(あまくに)はお差しではござるまいが」
「ナニ、天国? あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や天座(あまのざ)など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など、何んであろうぞ」
すると武士は、頭巾の中で、錆(さび)のある、少し嗄(しわが)れた声で笑ったが、「貴殿も、天国不存在論者か。馬鹿者の一人か。まアよい、腰の物お見せなされ」と、近寄って来た。
頼母は、傍若無人といおうか、自信ある行動といおうか、相手の武士が、無造作に、近寄って来る態度に圧せられ、思わず二、三歩退いたが、冠っていた編笠を刎ね退(の)け、刀の柄へ手をかけた。父の敵(かたき)を討つまでは、前髪も取らぬと誓い、それを実行している頼母は、この時二十一歳であったが、前髪を立てていた。当時の若衆形、沢村あやめに似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。
武士は、頼母の前、一間ばかりの所で立ち止まったが、「まだお若いの。若い貴殿を蜘蛛(くも)の餌食(えじき)にするのも不愍、斬るのは止めといたすが、云い出したからには、腰の物は拝見いたさねばならず……眠らせて!」
「黙れ!」
鍔音(つばおと)がした!
「はーッ」と頼母は、思わず呼吸(いき)を引いた。武士によって鳴らされた鍔音が、神魂に徹(とお)ったからであった。
猛然と頭巾が逼って来た。頭巾の主の体が、怒濤のように殺到して来た。そうして次の瞬間には、頼母は、地上へ叩き付けられていた。体当たりを喰らったのである。
俯向けに地に倒れた頼母は、(俺はここで死ぬのか。死んでは困る。俺は父の敵五味左門を討たなければならないのだから)と思った。
そういう彼の眼に見えたものは、彼の両刀を調べている武士の姿であった。そうして、その武士の背後の地面から、瘤(こぶ)のように盛り上がっている古塚であった。その古塚は、数本の松と、一基の碑(いしぶみ)とを、頂きに持っていた。そうして……しかし、頼母の意識は朦朧(もうろう)となってしまった。
参詣(おまいり)に来た娘
その頼母が、誰かに呼ばれているような気がして、正気づいた時、まず見えたのは、自分の顔へ、近々と寄せている、細い新月のような眉、初々(ういうい)しい半弓形の眼の、若い女の顔であった。円味の勝った頤(おとがい)につづいて、剥(む)き胡桃(くるみ)のような、肌理(きめ)の細かな咽喉が、鹿(か)の子(こ)の半襟から抜け出している様子は、艶(なまめ)かしくもあれば清らかでもあった。
「もし、お武家様、お気づかれましたか」と娘は云った。
頼母は弱々しく頷いて見せ、そうして、(俺はこの娘に助けられたらしい)と思った。しかしすぐに、紙帳から出て来た武士のことが気にかかった。それで、まだ弛(ゆる)く、自由になりにくい首をやっと廻して、林の方を見た。どんぐりや櫟(くぬぎ)や柏によって形成(かたちづく)られている雑木林には、今は陽があたっていて、初葉さえ附けていない裸体(はだか)の幹や枝が、紫ばんだ樺(かば)色に立ち並んでいたが、紙帳は釣ってなかった。
塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の身長(たけ)が高いので、紙帳を背後(うしろ)にして立った形(すがた)は「中」という字に似ていた。
「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。
「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。
「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ! 成らぬ!」
「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」
「黙れ! 無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ!」
「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか天国(あまくに)はお差しではござるまいが」
「ナニ、天国? あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や天座(あまのざ)など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など、何んであろうぞ」
すると武士は、頭巾の中で、錆(さび)のある、少し嗄(しわが)れた声で笑ったが、「貴殿も、天国不存在論者か。馬鹿者の一人か。まアよい、腰の物お見せなされ」と、近寄って来た。
頼母は、傍若無人といおうか、自信ある行動といおうか、相手の武士が、無造作に、近寄って来る態度に圧せられ、思わず二、三歩退いたが、冠っていた編笠を刎ね退(の)け、刀の柄へ手をかけた。父の敵(かたき)を討つまでは、前髪も取らぬと誓い、それを実行している頼母は、この時二十一歳であったが、前髪を立てていた。当時の若衆形、沢村あやめに似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。
武士は、頼母の前、一間ばかりの所で立ち止まったが、「まだお若いの。若い貴殿を蜘蛛(くも)の餌食(えじき)にするのも不愍、斬るのは止めといたすが、云い出したからには、腰の物は拝見いたさねばならず……眠らせて!」
「黙れ!」
鍔音(つばおと)がした!
「はーッ」と頼母は、思わず呼吸(いき)を引いた。武士によって鳴らされた鍔音が、神魂に徹(とお)ったからであった。
猛然と頭巾が逼って来た。頭巾の主の体が、怒濤のように殺到して来た。そうして次の瞬間には、頼母は、地上へ叩き付けられていた。体当たりを喰らったのである。
俯向けに地に倒れた頼母は、(俺はここで死ぬのか。死んでは困る。俺は父の敵五味左門を討たなければならないのだから)と思った。
そういう彼の眼に見えたものは、彼の両刀を調べている武士の姿であった。そうして、その武士の背後の地面から、瘤(こぶ)のように盛り上がっている古塚であった。その古塚は、数本の松と、一基の碑(いしぶみ)とを、頂きに持っていた。そうして……しかし、頼母の意識は朦朧(もうろう)となってしまった。
参詣(おまいり)に来た娘
その頼母が、誰かに呼ばれているような気がして、正気づいた時、まず見えたのは、自分の顔へ、近々と寄せている、細い新月のような眉、初々(ういうい)しい半弓形の眼の、若い女の顔であった。円味の勝った頤(おとがい)につづいて、剥(む)き胡桃(くるみ)のような、肌理(きめ)の細かな咽喉が、鹿(か)の子(こ)の半襟から抜け出している様子は、艶(なまめ)かしくもあれば清らかでもあった。
「もし、お武家様、お気づかれましたか」と娘は云った。
頼母は弱々しく頷いて見せ、そうして、(俺はこの娘に助けられたらしい)と思った。しかしすぐに、紙帳から出て来た武士のことが気にかかった。それで、まだ弛(ゆる)く、自由になりにくい首をやっと廻して、林の方を見た。どんぐりや櫟(くぬぎ)や柏によって形成(かたちづく)られている雑木林には、今は陽があたっていて、初葉さえ附けていない裸体(はだか)の幹や枝が、紫ばんだ樺(かば)色に立ち並んでいたが、紙帳は釣ってなかった。
国枝 史郎 (くにえだ しろう) 以外のオススメ作品
- 関東防空大演習を嗤う - 桐生 悠々
- 梓川の上流 - 小島 烏水
- 火の子供 - 原 民喜
- 月夜のでんしんばしらの軍歌 - 宮沢 賢治
- 寒山拾得縁起 - 森 鴎外
血曼陀羅紙帳武士 (ちまんだらしちょうぶし) のリンク元
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=3&key=%99%d6%91%c9%97%85&fid=2
- [[ezweb]] 武士 呼び方 お武家
- [[ezweb]] 曼陀羅
- [[ezweb]] 武士が行った修行
- [[ezweb]] 小説 腰 声 舌
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/onesearch/?p=%82%A9%82%C2%82%A8%82%D4%82%B5%82%BE%82%E6%82%B6%82%F1%82%B9%82%A2%82%CD%96%B3%97%BF%89%CC%8E%8C
- [[Yahoo]] 南方曼陀羅Wikipedia
- [[Yahoo]] 国枝史郎 血曼陀羅紙帳武士
- [[Google]] 武家 津村
- [[Google]] 紙曼陀羅とは
「血曼陀羅紙帳武士-国枝 史郎」の関連ページ
-
ナ行/ニ/西木史郎 - 漫画家くちこみリンク&掲示板 - 漫画家くちこみリンク&掲示板
rewqナ行/ニ/西木史郎 -
星史郎 - AntiqueMemory@ うぃき - AntiqueMemory@ うぃき
星史郎 星史郎 封真 虎太朗 no image no image no image Lv247 Lv250 Lv255 呼称桜の木の下で 呼称道産子LOVE 呼称 イサ -
キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲 - みんなで決めるゲーム音楽ベスト100まとめwiki - みんなで決めるゲーム音楽ベスト100まとめwiki
キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲機種:GBA作・編曲者:北海惣史郎、山根ミチル発売元:コナミ概要2002年に発売した横スクロールのアクションRPG。曲はGBAの負担にならないよう、PSG音源 -
三浦の営業 - 2ch競馬板「くっ・・・また邪気眼が暴れだしやがって」スレ まとめ@wiki - 2ch競馬板「くっ・・・また邪気眼が暴れだしやがって」スレ まとめ@wiki
145 名前:名無しさん@実況で競馬板アウト[sage] 投稿日:2009/12/22(火) 011730 IDZFj/ZD0POチョリ松「申し訳ありません、センセイ…」国枝「…済ん -
自民/は行/福島啓史郎 - 永田町二丁目情報部 - 永田町二丁目情報部
福島啓史郎をお気に入りに追加くちこみリンクThu, 15 Oc長谷川岳先生、吉川貴盛、宮本融先生、福島啓史郎先生、川端悟先生 ...Tue, 11 Au第45回衆議院議員総選挙 予想(北海 -
登場バンド(架空) - CARD ANGEL @ ウィキ - CARD ANGEL @ ウィキ
蒼 Ba. 国枝 赤音 Dr. 上条 千紘Velvet Ideal Princess(ベルベット・イデアル・プリンセス) Vo. 黒姫 Gt. 伊介 Gt. 西尾 Ba. 嵐 Key. 秋季 Dr -
自民/は行/福島啓史郎 - 永田町一丁目情報部 - 永田町一丁目情報部
福島啓史郎をお気に入りに追加 福島啓史郎 <情報1課>2009年10月16日(金)長谷川岳先生、吉川貴盛、宮本融先生、福島啓史郎先生、川端悟先生 ...2009年08月12日(水)第45 -
かつおぶしだよ人生は - みんなのうた@wiki - みんなのうた@wiki
楽曲情報 曲名 かつおぶしだよ人生は 読み かつおぶしだよじんせいは 作詞 高田ひろお 作曲 佐瀬寿一 編曲 佐瀬寿一 うた 加藤清史郎&アンクル☆させ アニ -
佐野史郎 - 無料deドラマ@wiki - 無料deドラマ@wiki
佐野史郎 wikipedia 公式 日付 タイトル 曜時局 視聴率 備考 新着 1995.07.12 沙粧妙子 最後の事件 水21フジ 15.0 -
邪気眼用語 - 2ch競馬板「くっ・・・また邪気眼が暴れだしやがって」スレ まとめ@wiki - 2ch競馬板「くっ・・・また邪気眼が暴れだしやがって」スレ まとめ@wiki
らく「スポニチ」のことである。夢のかけら・・・う○このことである。七海の邪気武具回復の泉・・・祇園のことである。闇拳闘・・・ジャンケンのことである。競馬の国・・・国枝師が探し求めている理想郷。リッ
