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- 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 宮本百合子選集第一巻・小説集 ☆宮本百合子
  • 【本】 宮本百合子研究・宮本百合子批評 関係書 6冊 N21078
  • 宮本百合子全集 補巻一 習作一 函・月報付 新日本出版社
  • 現代日本文学全集35 宮本百合子集 筑摩書房
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  • 宮本百合子全集 28巻セット■新日本出版社■1980/82年
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        一  一九一七年に、世界は一つの新しい伝説を得た。「ロシア革命」。当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、老耄(ろうもう)の一つ手前に達した年寄りまで、それぞれ一生の逸話(アネクドート)を拾った。逸話は、いかにもこの国風な復活祭の卵のように色つきで、或る者のは白、或るもののは緑、或る者のは真赤だ。
 レオニード・グレゴリウィッチ・ジェルテルスキーはやっと商業学校を出たばかりの青年であった。彼の父親は小さい町の工業家で、革命の時、理由あってか、多くの間違いのうちの一つの間違いによってか殺されて、河の氷の下へ突込まれた。ジェルテルスキーは、それから母親を五日鶏の箱へ詰めた経験、真直自分の額に向けられた拳銃の筒口を張り飛したので、銃玉(たま)が二月樺の木の幹へ穴をあけた陰気な光景などを、彼の逸話として得た。
 一九二九年、ジェルテルスキーは彼の東京で二度目の冬を迎えた。勤めている或る週刊新聞社は、赤坂電車通りに面して建っていた。水色のペンキで羽目板を塗り、白で枠を取った二階建ての粗末バラックであった。階下が発送部で、階上が編輯室だ。誰かが少し無遠慮に階段下りると、室じゅうが震えるその二階の一つの机、一台のタイプライターを、ジェルテルスキーは全力をつくして手に入れたのであった。
 薄曇りの午後、強い風が吹くごとに煙幕のような砂塵が往来に立った。窓|硝子(ガラス)がガタガタ鳴った。洋袴(ズボン)のポケット両手を突こみ、社長が窓から外を眺めていた。
「フッ! 何という埃(ほこり)だ。――こんなやつあニガリ撒いた位じゃ利かないもんかな」
「――…………」
 誰も返事しなかった。編輯員の一人は、片手で髭を引っぱりながら熱心に露文和訳をしていた。向いの机で、邦字新聞から経済記事を他の一人が抄訳している。黒ビロードルパシカを着たジェルテルスキーは、最も窓に近い卓子で露字新聞を読んでいた。彼は、社長の独言から、何という埃だ。利かないもんかな、などと云う言葉理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当日本語見つからない。――つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。
最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百数えられている」
 外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新聞社建物全体が震動した。一人思い出したように立って、室の隅の水道栓のところで含漱(うがい)を始めた。社長は次の室へ去った。――
 階子口のところへ、給仕娘の顔が出た。
「ジェルテルスキーさん、御面会ですよ」
「だれです?」
「御婦人の方がお二人で下に待っていらっしゃいます」
 ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような碧(あお)い眼を訝(いぶか)しげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。ジェルテルスキーは、靴をはいた足の長さ三分の一は確にあまる浅い階子(はしご)段を注意深く下りて行った。
「来ます?」
「ええ直ぐいらっしゃいます」
 腰をかがめてその声の方を覗き、ジェルテルスキーは意外さと漠然とした当惑とで、
「おお」
 蒼白い顔を少し赧(あか)らめた。再び金髪をかき上げる暇もなく、彼はブーキン夫人有名な饒舌に捕まった。
「ああ、レオニード・グレゴリウィッチ! お目にかかれて何て仕合せだったんでしょう。さ、どうか早く下りて来て私共の相談相手になって下さい」
 交際で、ジェルテルスキーはもうブーキン夫人を取扱うこつを心得ていた。彼は、内気そうな、同時に頑固そうなところもある微笑を浮べながら、先ず黙って、さし出された対手の手を握った。
「いかがです」
 次に彼は、傍(かたわら)に立っている、太ったマリーナ・イワーノヴナに挨拶した。いつも傲然と胸をつき出し、ジェルテルスキーを子供扱いにしているマリーナ・イワーノヴナが、今日はどうしたことか、彼の挨拶に、うなずいて答えるのだけがやっとらしい有様であった。それを、ブーキン夫人が尤(もっと)もだ、尤もだというように、吐息をついて眺めた。
「ねえ、レオニード・グレゴリウィッチマリーナ・イワーノヴナが何ともお気の毒なことになりましてね、私、御相談受け友達甲斐にお見捨てすること出来なくなったんですよ、マリーナ・イワーノヴナ、よくレオニード・グレゴリウィッチに事情をお話しなさいませよ、若い人の心は寛大だから、きっと貴女の御満足の行くように計らってお貰いになれますよ」
 発送掛の小僧事務員、さっきの給仕娘まで今は一斉に仕事をやめ、深い好奇心に輝いて、ジェルテルスキー自身にもまだ訳の分らない話を眺めている。彼は、
「失礼ですが、此方に椅子がありますから」
と、二人の女を応接間に通した。がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。弾機(ばね)もない堅い椅子が四五脚、むき出しの円卓子(まるテーブル)の周囲に乱雑に置いてあった。その一つを腰の下に引きよせるや否や、ブーキン夫人は新しい勢いで云いだした。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうか貴方、可哀そうなマリーナ・イワーノヴナの忠実な騎士になって上げて下さい、ね、お拒みなさりはしませんわね」
 ジェルテルスキーは、黒い洋袴を穿(は)いた脚を組みながら、丁寧に碧い眼を見開いて対手を見守った。
「|失礼です(イズウィニーチェ)が、夫人(マダム)、私はまだちっともお話の内容がわからないんですが」
「まあ本当に! 私、いつも熱中するとこうなんですの、そしては宅に驢馬(ろば)っていわれるんですの――ホッホホホ」
 何故この夫人ばかりは、ナデージュタ・ペトローヴナと呼ばれず、マダム・ブーキンと云うのか誰も理由を知らなかった。
 彼女名刺にマダム・ブーキンと刷らせた。ジェルテルスキーが、上海で始めて彼女紹介された時、彼女は、何か特種な称号でも云うように、
「ええ、私マダム・ブーキンと申しますの、どうぞよろしく」
と紅をさした頬で微笑(わら)った。


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