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西方の人 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

  • 芥川龍之介◆侏儒の言葉・西方の人◆続西方の人収録
  • ■即■絶版 岩波文庫■芭蕉雑記・西方の人 他七篇/芥川 龍之介/b
  • 芭蕉雑記・西方の人 他七篇/芥川竜之介/岩波文庫
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芥川龍之介      1 この人を見よ  わたしは彼是(かれこれ)十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛してゐた。長崎の「日本聖母の寺」は未だに私の記憶に残つてゐる。かう云ふわたしは北原白秋氏や木下|杢太郎(もくたらう)氏の播(ま)いた種をせつせと拾つてゐた鴉(からす)に過ぎない。それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた。殉教者心理はわたしにはあらゆる狂信者心理のやうに病的な興味を与へたのである。わたしはやつとこの頃になつて四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云ふ人を愛し出した。クリスト今日のわたしには行路(かうろ)の人のやうに見ることは出来ない。それは或は紅毛人たちは勿論、今日青年たちには笑はれるであらう。しかし十九世紀の末に生まれたわたしは彼等のもう見るのに飽きた、――寧(むし)ろ倒すことをためらはない十字架に目を注ぎ出したのである。日本に生まれた「わたしのクリスト」は必しもガリラヤの湖を眺めてゐない。赤あかと実のつた柿の木の下に長崎入江も見えてゐるのである。従つてわたしは歴史事実地理事実を顧みないであらう。(それは少くともジヤアナリステイツクには困難を避ける為ではない。若し真面目に構へようとすれば、五六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである。)それからクリストの一言一行を忠実に挙げてゐる余裕もない。わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳(いかめ)しい日本クリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らく大目に見てくれるであらう。

     2 マリア

 マリアは唯の女人だつた。が、或夜聖霊に感じて忽(たちま)ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜素焼きの瓶(かめ)や巌畳(がんでふ)に出来腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美徳とは彼女の一生の中に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆(はんぎやく)はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だつた。

     3 聖霊

 我々は風や旗の中にも多少の聖霊を感じるであらう。聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。唯「永遠に超(こ)えんとするもの」である。ゲエテはいつも聖霊Daemon の名を与へてゐた。のみならずいつもこの聖霊に捉はれないやうに警戒してゐた。が、聖霊子供たちは――あらゆるクリストたちは聖霊の為にいつか捉はれる危険を持つてゐる。聖霊悪魔天使ではない。勿論、神とも異るものである。我我は時々善悪彼岸(ひがん)に聖霊の歩いてゐるのを見るであらう。善悪彼岸に、――しかしロムブロゾオは幸か不幸か精神病者の脳髄の上に聖霊の歩いてゐるのを発見してゐた。

     4 ヨセフ

 クリストの父、大工のヨセフは実はマリア自身だつた。彼のマリアほど尊まれないのはかう云ふ事実にもとづいてゐる。ヨセフはどう贔屓目(ひいきめ)に見ても、畢竟(ひつきやう)余計ものの第一人だつた。

     5 エリザベツ

 マリアはエリザベツの友だちだつた。バプテズマのヨハネを生んだものはこのザカリアベの妻、エリザベツである。麦の中に芥子(けし)の花の咲いたのは畢(つひ)に偶然と云ふ外はない。我々の一生を支配する力はやはりそこにも動いてゐるのである。

     6 羊飼ひたち

 マリアの聖霊に感じて孕(はら)んだことは羊飼ひたちを騒がせるほど、醜聞だつたことは確かである。クリストの母、美しいマリアはこの時から人間苦の途(みち)に上り出した。

     7 博士たち

 東の国の博士たちはクリストの星の現はれたのを見、黄金乳香(にゆうかう)や没薬(もつやく)を宝の盒(はこ)に入れて捧げて行つた。が、彼等は博士たちの中でも僅(わづ)かに二人か三人だつた。他の博士たちはクリストの星の現はれたことに気づかなかつた。


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