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西湖の屍人 - 海野 十三 ( うんの じゅうざ )

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     1  銀座裏の酒場(バー)、サロン船(ふね)を出たときには、二人とも、ひどく酩酊(めいてい)していた。  私は私で、黄色い疎(まば)らな街燈に照らしだされた馴染(なじみ)の裏街が、まるで水の中に漬(つか)っているような気がしたし、帆村(ほむら)のやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿(めいえん)シドニーのように横ちょに被り、洋杖(ステッキ)がタンゴを踊りながら彼の長い二本の脛(すね)をひきずってゆくといった恰好(かっこう)だった。
 私はそれでも、ロマンチストだから構(かま)わないようなものの、かれ帆村なるものは、商売私立探偵ではないか。帽子天頂(てっぺん)から靴の裏底まで、およそリアリズムであるべきだった。しかるに今夜、彼はそれ等の特徴を見事ふりおとして、身体中が隙(すき)だらけであるかのように見えた。もし彼に怨恨(うらみ)のある前科者(ぜんかもの)どもが、短刀|逆手(さかで)に現われたとしたらどうするだろうと、私は気になって仕方がなかった。
 すると、背後から大声でもって、警告してやりたい程、矢鱈無性(やたらむしょう)に不安に襲われた。この嘔気(はきけ)のようにつきあげてくる不安は、あながち酩酊(めいてい)のせいばかりでは無いことはよく判っていた。近代都市生活者の九十九パーセントまでが知らず識らずの間に罹(かか)っているといわれる強迫観念症(きょうはくかんねんしょう)の仕業(しわざ)にちがいないのだ。
 帆村が蹣跚(よろ)めくのを追って、私が右にヨタヨタと寄ると、帆村は意地わるくそれと逆の左の方にヨロヨロと傾(かたむ)いてゆくのだった。銀座裏は時刻だから、いたずらに広々としたアスファルトの路面がのび、両側の家はヒッソリと寝しずまり、さまざまの形をした外燈が、半分夢を見ながら足許(あしもと)を照らしていた。
 酔っ払いにとって、四ツ角(かど)は至極(しごく)懐(なつか)しいものである。三間先のコンクリート壁体(へきたい)を舐(な)めるようにして歩いていた帆村は、四ツ角を見付けると嬉しそうに両手をあげ、まるでゴールのテープを截(き)るような恰好をして、蹣跚(よろ)けていった。そのとき私は後からそれを眺めていて、急にハッとしたのだった。
 ――その四ツ角へ、別の横丁から、おかしな奴がノコノコやってくる!
 その姿は、本当には薩張(さっぱ)り見えないのだ。それにも拘(かかわ)らず、見えない横丁に歩いている人間の姿が見えたような気がした。いや、矢張(やは)りハッキリと見えたのだ。それは不思議なようで、別に不思議はないことだ。私達のように永年(ながねん)都会に棲(す)んで、極度に神経を敏感以上、病的に削(けず)られている者は、別に特殊な修練(しゅうれん)を経(へ)ないでも、いつの間にか、ちょっとした透視(とうし)ぐらいは出来るようになっているのだった。これはいつも、そういう話の出たときに、私の言う話であるが、試(こころ)みに諸君身体の調子のよいときに、ポケット懐中時計をソッと掌(て)のうちに握って、
(はて、いま何時何分かなァ――)
 と考えてみたまえ、すると目の前に、白い時計文字盤が朦朧(もうろう)とあらわれ、短い針と長い針の傾きアリアリと判るのだ。そうして置いて、掌(てのひら)を開き、本当の文字盤を見る。果然(かぜん)! 一分と違(たが)わず二つは一致している――これでも諸君は信じないというか?
 四ツ角では、帆村ともう一人の黒い影とが、縺(もつ)れあっているのだった。
 私は、応援してやりたい気持一杯で、ペイブメントを蹴って駈けだしたのであるが、駈けるというよりは、泳ぐというに近かった。
「ぼぼぼ僕は、いいい生きているでしょうか」
 と帆村の前に立つ怪(あや)しの男が、熱心に尋(たず)ねている。
 帆村は、その男に胸倉(むなぐら)をとられたまま、
「ウウ、ううウ」
 と低く呻(うな)っているばかりだった。
「ちょいと、僕の身体を触ってみてください。この辺を触ってみて下さい」
 泣かんばかりに彼(か)の男は喚(わめ)くのであった。そして帆村を離すと、ベリベリと音をさせて、われとわがワイシャツを裂(さ)きその間から屍(しかばね)のように青白い胸部露出させた。私は、初めてその男の姿をマジマジと観察したのだったが、思ったよりは遙かに、若い男だった。年齢(とし)のころは二十四五でもあろうか。だが非常に憔悴(しょうすい)していた。皮膚には一滴の血(ち)の気(け)もなく下瞼(したまぶた)がブクリと膨(ふく)れて垂(た)れ下(さが)り、大きな眼は乾魚(ひもの)のように光を失っていた。
「きみは、おおお面白いことを云う」帆村が口のあたりについている涎(よだれ)らしいものを手の甲で拭(ぬぐ)い乍(なが)ら云うのであった。
「生きているかァ? ウンここにあるのは、きみィの胸ではないか、だッ」
 帆村は腰をかがめ、指先を自分の眼の前にチラチラふるわせて云った。
「では、僕の手を握ってください」
「よオし、握った」
 帆村はよろけながら、怪青年の手を執(と)った。
「その手は、僕の身体に繋(つなが)っているでしょうか」
「ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ」
「僕が喋(しゃべ)るときには、この唇が動いているでしょうか」
「なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひとを舐(な)めやがって」
 帆村は、気合(きあい)をかけると、
「ええいッ」
 と青年の頭をガーンと、どやしつけた。
 青年は痛そうな顔一つしない。
 が、彼はたちまち恐怖の色を浮べて喚(わめ)きだした。
「おお憎(にく)むべき幻影(げんえい)よ。わが前より消えてなくなれ。消えてなくなれ!」
 彼は両眼(りょうがん)をカッと見開き、この一見意味のない台辞(せりふ)を嘔(は)きちらしていたが軈(やが)てブルブルと身震(みぶる)いをすると、パッと身を飜(ひるがえ)して駈け出した。
「それッ、逃がすな!」
 と叫んだ帆村の声は、いつの間にか普段(ふだん)の、あの胸のすくような名調子に変っていた。
「よオし、掴(つかま)えてやる!」
 と私は呶鳴(どな)った。
(これは冗談ごとではなくて、なにか事件かもしれない)私の酔いは、やっと醒(さ)めかかった。
 私は兵士のように身を挺(てい)して、怪青年の背後に追いすがった。右の肘(ひじ)をウンと伸すと、運よく彼の肩口に手が触れた。勇躍(ゆうやく)。
「ヤッ!」
 と飛びかかった。


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