親鸞 関連リンク

三木 清 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

親鸞 - 三木 清 ( みき きよし )

  • 親鸞+続 親鸞[2本set]中村錦之助 丘さとみ
  • ♪親鸞 (上、下)  五木寛之「親鸞」
  • s和本 美本 本願寺聖人親鸞傳絵2冊揃 仏教 古書古文書
  • 特装版 親鸞 全2巻 五木寛之(2010年)
  • 五木寛之 『 親鸞 』 上、下巻 *初版
  • 状態良好 野間宏文学と親鸞 悪と救済の論理 張偉 法蔵館 7,350円
  • 【即決】吉川英冶歴史時代文庫 ★ 親鸞 全3巻 ★ 講談社
  • 文日 吉本隆明著 増補 最後の親鸞 春秋社刊 定価2000円
  • ●新版 親鸞 全3冊 丹羽文雄 定価3600円
  • 【信頼の実績11年】掛軸/70代浄土真宗西本願寺/親鸞聖人蓮如上人
次のページ
  一 人間性の自覚  の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』のごとき一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われ得ることである。『教行信証』はまことに不思議な書である。それはおもに経典や論釈の引用から成っている。しかもこれらの章句があたかも親鸞自身の文章であるかのごとく響いてくるのである。いわゆる自釈の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の体験を語っている。『教行信証』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、単に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の読み方文字の加減などが原典の意味に拘泥(こうでい)することなく、親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
 かようにしてしばしばなされるように、彼の教えを体験の宗教として特色づけることは正しいであろう。しかしその意味は厳密に規定されることが必要である。宗教を単に体験と解することは宗教から本質的に宗教的なものを除いて「美的なもの」にしてしまう危険を有している。実際、親鸞の教えにおいて体験の意義を強調することからそれを単に「美的なもの」にしてしまっている例は決してすくなくはないのである。親鸞はすぐれて宗教人間であった、彼の体験もまたもとより本質的に宗教的である、ところで宗教的体験の特色は「内面性」にある。親鸞の体験の深さはその内面性の深さである。彼の抒情の深さというものもかくのごとき内面性の深さにほかならない。

    人間 愚禿の心

 親鸞思想特色は、仏教人間的にしたところにあるというようにしばしば考えられている。この見方は正しいであろう、しかしその意味は十分に明確に規定されることを要するのである。
 親鸞文章を読んで深い感銘を受けることは、人間的な情味の極めて豊かなことである。そこには人格的な体験が満ち溢れている。経典や論釈からの引用の一々に至るまで、ことごとく自己の体験によって裏打ちされているのである。親鸞はつねに生の現実の上に立ち、体験を重んじた。そこには知的なものよりも情的なものが深く湛えられている。彼の思想人間的といい得るのは、これによるであろう。生への接近、かかる現実性、肉体性とさえいい得るものが彼の思想の著しい特色をなしている。しかしながら、このことから親鸞宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤りである。宗教を単に体験のことと考えることは、宗教主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理問題である。〔欄外 Emil Brunner, Erlebnis, Erkenntnis und Glaube, 1923.〕真理は単に人間的なもの、主観的なもの、心理的なものでなく、あくまでも客観的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。もし宗教が単に体験に属するならば、それは単なる感情、いな単なる感傷に属することになるであろう。かくして宗教は真に宗教的なものを失って、単に美的なもの、文芸的なものと同じになる。親鸞の教えがともすればかくのごとき方向に誤解され易いことに対して我々は厳に警戒しなければならない。もとより親鸞思想特色が体験的であること、人間的であること、現実的であることに存することは争われない。そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。内面性とは空虚主観性ではなく、かえって最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。

五濁悪世の衆生
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議
功徳は行者の身にみてり

あるいは、

弥陀のちかひのゆへなれば
不可称不可説不可思議
功徳はわきてしらねども
信ずるわがみにみちみてり

という二種の和讃はこの趣を現わすであろう。
 親鸞文章には到るところ懺悔(さんげ)がある。同時にそこには到るところ讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じている。自己の告白懺悔内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教内面性がある。親鸞はすぐれて宗教的な人間であった。懺悔と讃歎とは宗教の両面の表現である。〔欄外 Augustinus〕親鸞文章からただ懺悔に属するもののみを取り出して、彼の宗教人間的であることを論ずる者は、彼の思想を単に美的なもの、文芸的なものにしてしまうことであって、いまだ宗教人間のいかなるものであるかを知らざるものといわねばならぬ。親鸞における人間問題はどこまでも宗教人間問題宗教人間存在の仕方の問題でなければならぬ。懺悔は単なる反省から生ずるものではない。


次のページ

三木 清 (みき きよし) 以外のオススメ作品

親鸞 (しんらん) のリンク元

「親鸞-三木 清」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN