赤い貨車 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
一
そこは広い野原で、かなたに堤防が見えた。堤防のかなたに川があるのではなく、やはり野原で、轍(わだち)の跡が深く泥濘にくいこんだ田舎道が、堤防の橋の下をくぐったさきにつづいて見えた。工事のはじめから堤防は大きな空の下で弓なりに野をはい、多分愉快な自動車道にでもなるわけらしかった。革命の時、工事が中止された。それ以来いつになっても働く人間の姿は見えず、ある個所は橋をかけるように堤防と堤防とをきりはなしたまま、鉄橋はなかった。村に近いところでは、すでに堤防の砂がくずれた。未完成な堤防になれた子供たちがそこを駈けのぼったり駈け下りたりした。山羊が高いところで白い腹の毛を風に吹かせていることもある。
ナースチャは、伯母の家へすむようになってから、ずっとこの堤防を見馴れていた。しかしナースチャ自身は、一度も堤防によじのぼったことはなかった。遠くから眺めて、時々、いい景色で心持がよいと思った。そういう気質は、ナースチャの死んだ親父が彼女のうちへのこして行ったものだ。
野原のなかに、もう一つ動かず毎日ナースチャの目に映るものがあった。それは堤防とは反対側の野のかなたの果にある貨車の列だ。貨車は八台見えた。七月の太陽に暑そうな赫土色に光って見えた。一日じゅう貨車は動かないままでいた。それに気づいた時、ナースチャはなんだか楽しみな心持で、元気づいた。――あの貨車はいつ動き出すのだろう。このうねをきってしまうのとどちらが早いか。
ナースチャは、ジャガいも畑でさくりをきっているのであった。畑は本物の畑とは云えなかった。少し深く掘ると腐った薬罐(やかん)の破片だの罐詰の空罐だのの出て来る原っぱの端だが、その地面の草を四角くむしって仕立屋の伯母がジャガいもを作っているのだ。
鍬のいやに根っこのところを握って、白いプラトークを頭にかぶったナースチャは地面を掘りかえしつづけた。掘られた土は冷やりナースチャの裸足(はだし)の甲にかかり、あたりには暑い草いきれと微かな土の匂いとがした。ナースチャの桃色木綿の裾(ユーブカ)に風が吹いた。
ナースチャは、わざと自分の腕の下から、そばかすのある頬ぺたを逆にして、ちょいちょい人気ない原っぱのかなたの空とその下の赤い貨車の列とをのぞいた。貨車は動かず、空の白雲が流れて、野原の半面と貨車とを大きくかげらした。
二
村道は埃っぽい。
村道のはずれに並木道があった。その古い菩提樹(リーパ)の並木道をあっちへ横切ると、石敷の歩道がはじまる。槭樹(ヤーセン)の影の落ちる歩道は八方から集って、緑のたまりのような公園となった。
公園はほとんどロシアじゅうに有名だ。天気のよい日曜日、池のまわりのベンチの上に、あらゆる賑やかなプロレタリアの色彩と笑声があふれた。ギターと手風琴(ガルモニカ)の音が木立の蔭から夜まで響いた。石橋の上で、赤いプラトークをかぶった工場の娘が兵卒と踊る。公園じゅうにアイスクリーム売りの手押車と向日葵(ひまわり)の種、糖果(コンフエクト)などを売る籠一つ、あるいは二尺四方の愛嬌よき店がちらばった。市からは工場の見学団(エクスクールシア)が楽団を先頭にしてやって来る。見学団は停車場から一露里の道中でうっすり埃をかぶった大よそゆきのエナメル靴の上から、草鞋(わらじ)のようなカバーを麻紐でくるぶしにくくりつけ、静かに力づよく押しあいながら、エカテリナ二世宮殿の毛氈の上を歩いた。彼らが、支那皇帝がこの精力的な女皇に贈ったという堆朱(ついしゅ)の大瓶(おおがめ)を眺めている間、そしてこのたいして美しいとも思えぬ瓶一つのために八十年間三代の工人が働いたという説明をきいて、ぼーっと頭のなかにその長い歳月についやされた工賃を反射させている時、別隊のプーシュキン見学団が、宮殿の外の往来で日にやけながら、ある家屋の軒を見上げていた。
「諸君(グラジュダニン)! ここがわれらの大詩人プーシュキンの学んだ貴族学校長、エンゲルガルトが住んでいた家であります」
十数人の男女が頤(あご)をそろえて見上げたその水色石造建築物の外観は極めて平凡で、歩道に向った下の窓の奥に「下宿(パンシオン)・レオノヴォイ」という札が出してあった。白いカーテンの上からゼラニアムの赤い花が見える。
見学団から見えぬその家のテラスで、五人の男女がカンバス椅子にかけていた。モスクワから一日おくれに到着する「イズヴェスチャ」が老教授の膝の上にあった。彼は、水っぽくしなびた婆さんみたいな鼻のある顔で目の前の槭樹(ヤーセン)の梢を眺めている。槭樹はいま七月で、葉かげに青塗りの木造飛行機模型のような実の房を一杯つけているのであった。革命後十一年目――生活……学士院(アカデミー)――「イズヴェスチャ」第六面にСССР学士院で会員候補氏名が発表された。特殊技術部の候補者には、ゴスプランのグレブ・マクシミリアノヴィッチ・クルジジャノウスキー、歴史部ポクロフスキー、哲学部の候補にはブハーリン。今秋四十何人か全然新しい会員が選挙されるということに老教授は歓喜を感じ得ないのだった。ペチカたきの男しかコンムニストはいなかったのだ。
ナースチャは、伯母の家へすむようになってから、ずっとこの堤防を見馴れていた。しかしナースチャ自身は、一度も堤防によじのぼったことはなかった。遠くから眺めて、時々、いい景色で心持がよいと思った。そういう気質は、ナースチャの死んだ親父が彼女のうちへのこして行ったものだ。
野原のなかに、もう一つ動かず毎日ナースチャの目に映るものがあった。それは堤防とは反対側の野のかなたの果にある貨車の列だ。貨車は八台見えた。七月の太陽に暑そうな赫土色に光って見えた。一日じゅう貨車は動かないままでいた。それに気づいた時、ナースチャはなんだか楽しみな心持で、元気づいた。――あの貨車はいつ動き出すのだろう。このうねをきってしまうのとどちらが早いか。
ナースチャは、ジャガいも畑でさくりをきっているのであった。畑は本物の畑とは云えなかった。少し深く掘ると腐った薬罐(やかん)の破片だの罐詰の空罐だのの出て来る原っぱの端だが、その地面の草を四角くむしって仕立屋の伯母がジャガいもを作っているのだ。
鍬のいやに根っこのところを握って、白いプラトークを頭にかぶったナースチャは地面を掘りかえしつづけた。掘られた土は冷やりナースチャの裸足(はだし)の甲にかかり、あたりには暑い草いきれと微かな土の匂いとがした。ナースチャの桃色木綿の裾(ユーブカ)に風が吹いた。
ナースチャは、わざと自分の腕の下から、そばかすのある頬ぺたを逆にして、ちょいちょい人気ない原っぱのかなたの空とその下の赤い貨車の列とをのぞいた。貨車は動かず、空の白雲が流れて、野原の半面と貨車とを大きくかげらした。
二
村道は埃っぽい。
村道のはずれに並木道があった。その古い菩提樹(リーパ)の並木道をあっちへ横切ると、石敷の歩道がはじまる。槭樹(ヤーセン)の影の落ちる歩道は八方から集って、緑のたまりのような公園となった。
公園はほとんどロシアじゅうに有名だ。天気のよい日曜日、池のまわりのベンチの上に、あらゆる賑やかなプロレタリアの色彩と笑声があふれた。ギターと手風琴(ガルモニカ)の音が木立の蔭から夜まで響いた。石橋の上で、赤いプラトークをかぶった工場の娘が兵卒と踊る。公園じゅうにアイスクリーム売りの手押車と向日葵(ひまわり)の種、糖果(コンフエクト)などを売る籠一つ、あるいは二尺四方の愛嬌よき店がちらばった。市からは工場の見学団(エクスクールシア)が楽団を先頭にしてやって来る。見学団は停車場から一露里の道中でうっすり埃をかぶった大よそゆきのエナメル靴の上から、草鞋(わらじ)のようなカバーを麻紐でくるぶしにくくりつけ、静かに力づよく押しあいながら、エカテリナ二世宮殿の毛氈の上を歩いた。彼らが、支那皇帝がこの精力的な女皇に贈ったという堆朱(ついしゅ)の大瓶(おおがめ)を眺めている間、そしてこのたいして美しいとも思えぬ瓶一つのために八十年間三代の工人が働いたという説明をきいて、ぼーっと頭のなかにその長い歳月についやされた工賃を反射させている時、別隊のプーシュキン見学団が、宮殿の外の往来で日にやけながら、ある家屋の軒を見上げていた。
「諸君(グラジュダニン)! ここがわれらの大詩人プーシュキンの学んだ貴族学校長、エンゲルガルトが住んでいた家であります」
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2000年11月◆川崎ロック - STRIPwiki - STRIPwiki
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