路上 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )
芥川龍之介
一
午砲(どん)を打つと同時に、ほとんど人影の見えなくなった大学の図書館(としょかん)は、三十分|経(た)つか経たない内に、もうどこの机を見ても、荒方(あらかた)は閲覧人で埋(う)まってしまった。
机に向っているのは大抵(たいてい)大学生で、中には年輩の袴(はかま)羽織や背広も、二三人は交っていたらしい。それが広い空間を規則正しく塞(ふさ)いだ向うには、壁に嵌(は)めこんだ時計の下に、うす暗い書庫の入口が見えた。そうしてその入口の両側には、見上げるような大書棚(おおしょだな)が、何段となく古ぼけた背皮を並べて、まるで学問の守備でもしている砦(とりで)のような感を与えていた。
が、それだけの人間が控えているのにも関(かかわ)らず、図書館の中はひっそりしていた。と云うよりもむしろそれだけの人間がいて、始めて感じられるような一種の沈黙が支配していた。書物の頁を飜(ひるがえ)す音、ペンを紙に走らせる音、それから稀(まれ)に咳(せき)をする音――それらの音さえこの沈黙に圧迫されて、空気の波動がまだ天井まで伝わらない内に、そのまま途中で消えてしまうような心もちがした。
俊助(しゅんすけ)はこう云う図書館の窓際の席に腰を下して、さっきから細かい活字の上に丹念(たんねん)な眼を曝(さら)していた。彼は色の浅黒い、体格のがっしりした青年だった。が、彼が文科の学生だと云う事は、制服の襟にあるLの字で、問うまでもなく明かだった。
彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂った椎(しい)の葉が、僅(わずか)に空の色を透(す)かせた。空は絶えず雲の翳(かげ)に遮(さえぎ)られて、春先の麗(うら)らかな日の光も、滅多(めった)にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦(そよ)いでいる椎の葉が、朦朧(もうろう)たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行(ぎょう)の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。……
十二時半、一時、一時二十分――書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口(とぐち)に近い、目録(カタログ)の函(はこ)の並んでいる所へ、小倉(こくら)の袴に黒木綿(くろもめん)の紋附(もんつき)をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精(ぶしょう)らしく懐手(ふところで)をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫(おおいあつお)と云う男らしかった。
彼はそこに佇(たたず)んだまま、しばらくはただあたりの机を睨(ね)めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅(おおはば)な薄日(うすび)の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速(さっそく)その椅子(いす)の後(うしろ)へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬(ほお)に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋(あご)でこの挨拶に答えながら、妙に脂下(やにさが)った、傲岸(ごうがん)な調子で、
「今朝(けさ)郁文堂(いくぶんどう)で野村さんに会ったら、君に言伝(ことづ)てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢(はち)の木(き)』の二階へ来てくれと云うんだが。」
二
「そうか。そりゃ難有(ありがと)う。」
俊助(しゅんすけ)はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井(おおい)は内懐(うちぶところ)から手を出して剃痕(そりあと)の青い顋(あご)を撫(な)で廻しながら、じろりとその時計を見て、
「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」
「これか。こりゃ母の形見だ。」
俊助はちょいと顔をしかめながら、無造作(むぞうさ)に時計をポッケットへ返すと、徐(おもむろ)に逞(たくま)しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間(あいだ)に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好(い)い加減に所々(ところどころ)開けて見ながら、
「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸(なまあくび)を一つ噛(か)み殺すと、
「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」
「いや、一向|振(ふる)わなくって困っている。」
「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」
大井は書物を抛(ほう)り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏|揺(ゆす)りをし始めたが、その内に俊助が外套(がいとう)へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、
「おい、君は『城(しろ)』同人(どうじん)の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔(まがお)になって問いかけた。
『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜(ひょうぼう)して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々|築地(つきじ)の精養軒(せいようけん)で開かれると云う事は、法文科の掲示場(けいじば)に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。
「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」
俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋(わき)の下へ挟(はさ)むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾(こうかつ)そうに眼を働かせて、
「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢(ふじさわ)に売りつけ方(かた)を委託(いたく)されて、実は大いに困却しているんだ。」
不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑(くしょう)しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂(たもと)から、『城』同人の印(マアク)のある、洒落(しゃ)れた切符を二枚出すと、それをまるで花札(はなふだ)のように持って見せて、
「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」
「どっちも真平(まっぴら)だ。」
「いかん。
が、それだけの人間が控えているのにも関(かかわ)らず、図書館の中はひっそりしていた。と云うよりもむしろそれだけの人間がいて、始めて感じられるような一種の沈黙が支配していた。書物の頁を飜(ひるがえ)す音、ペンを紙に走らせる音、それから稀(まれ)に咳(せき)をする音――それらの音さえこの沈黙に圧迫されて、空気の波動がまだ天井まで伝わらない内に、そのまま途中で消えてしまうような心もちがした。
俊助(しゅんすけ)はこう云う図書館の窓際の席に腰を下して、さっきから細かい活字の上に丹念(たんねん)な眼を曝(さら)していた。彼は色の浅黒い、体格のがっしりした青年だった。が、彼が文科の学生だと云う事は、制服の襟にあるLの字で、問うまでもなく明かだった。
彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂った椎(しい)の葉が、僅(わずか)に空の色を透(す)かせた。空は絶えず雲の翳(かげ)に遮(さえぎ)られて、春先の麗(うら)らかな日の光も、滅多(めった)にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦(そよ)いでいる椎の葉が、朦朧(もうろう)たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行(ぎょう)の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。……
十二時半、一時、一時二十分――書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口(とぐち)に近い、目録(カタログ)の函(はこ)の並んでいる所へ、小倉(こくら)の袴に黒木綿(くろもめん)の紋附(もんつき)をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精(ぶしょう)らしく懐手(ふところで)をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫(おおいあつお)と云う男らしかった。
彼はそこに佇(たたず)んだまま、しばらくはただあたりの机を睨(ね)めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅(おおはば)な薄日(うすび)の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速(さっそく)その椅子(いす)の後(うしろ)へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬(ほお)に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋(あご)でこの挨拶に答えながら、妙に脂下(やにさが)った、傲岸(ごうがん)な調子で、
「今朝(けさ)郁文堂(いくぶんどう)で野村さんに会ったら、君に言伝(ことづ)てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢(はち)の木(き)』の二階へ来てくれと云うんだが。」
二
「そうか。そりゃ難有(ありがと)う。」
俊助(しゅんすけ)はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井(おおい)は内懐(うちぶところ)から手を出して剃痕(そりあと)の青い顋(あご)を撫(な)で廻しながら、じろりとその時計を見て、
「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」
「これか。こりゃ母の形見だ。」
俊助はちょいと顔をしかめながら、無造作(むぞうさ)に時計をポッケットへ返すと、徐(おもむろ)に逞(たくま)しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間(あいだ)に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好(い)い加減に所々(ところどころ)開けて見ながら、
「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸(なまあくび)を一つ噛(か)み殺すと、
「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」
「いや、一向|振(ふる)わなくって困っている。」
「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」
大井は書物を抛(ほう)り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏|揺(ゆす)りをし始めたが、その内に俊助が外套(がいとう)へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、
「おい、君は『城(しろ)』同人(どうじん)の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔(まがお)になって問いかけた。
『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜(ひょうぼう)して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々|築地(つきじ)の精養軒(せいようけん)で開かれると云う事は、法文科の掲示場(けいじば)に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。
「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」
俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋(わき)の下へ挟(はさ)むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾(こうかつ)そうに眼を働かせて、
「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢(ふじさわ)に売りつけ方(かた)を委託(いたく)されて、実は大いに困却しているんだ。」
不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑(くしょう)しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂(たもと)から、『城』同人の印(マアク)のある、洒落(しゃ)れた切符を二枚出すと、それをまるで花札(はなふだ)のように持って見せて、
「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」
「どっちも真平(まっぴら)だ。」
「いかん。
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