踊る地平線 03 黄と白の群像 - 谷 譲次 ( たに じょうじ )
踊る地平線
黄と白の群像
アイチミュラ・羽左衛門
『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――有名な日本の俳優がここに泊っているはずですが、いまいらっしゃいましょうか?』
あちこち動きまわっている番頭(クラアク)たちのなかから、やっとのことでひとりの注意を捉え得た私は、せいの高い帳場(オフィス)の台ごしに上半身を乗り出して、「有名な」に力を入れてどなるようにこう訊いた。
相手の番頭というのは、縞(しま)ずぼんに黒の背広を着た、いかにも英吉利(イギリス)のホテルのクラアクらしい五十がらみの赤毛の男である。場処は倫敦(ロンドン)ピカデリイのパアク・レイン・ホテル――午前十時。
六月末の蒸暑い曇った日で、戸外の、世紀的に古いロンドンの雑沓を貫いて、まえのピカデリイを走る自動車の警笛が、しっきりなしに、それでいて妙に遠く聞えている。
メイフェア――と言えば、「倫敦(ロンドン)のロンドン」だ。ベイスウォウタア、ベルグレヴィア、サウス・ケンシントン、それにこのメイフェアの四つが、いっぱんに倫敦(ロンドン)市内で一ばん高級な住宅街となっているが、メイフェアの持つ歴史と香気にくらべれば、ジョウジアン時代以後に出来た他の三つの区域は、厳正な意味で倫敦的であるべくあまりに生々しい。いいかえれば、それほどメイフェアの石と煉瓦は、雄弁に、じつに雄弁に倫敦を語っているのだ。この、十八世紀初期の建築が低い表階段を並べているメイフェアなる地点は、いろいろな装飾で取り巻かれた中心に小さな宝石が象眼してあるように、地理的にいえばごくせまい。南はピカデリイ、北はオックスフォウド街、東はボンド街、西はパアク・レインにかこまれた一廓に過ぎないが、小さな横町が無数に通っているので、生粋の倫敦人でもうっかりすると迷児(まいご)になるくらいだ。大富豪の邸宅――といったところで驚くほど小さな――に混(まじ)って、ばかに内部の暗い本屋や毛織物店が、時代と場処を間違えたように二、三軒かたまっていたりして、ここの街上で見かける紳士はどこまでもふるい英吉利(イギリス)国の紳士であり、角の太陽酒場(サン・イン)から口を拭きながら出てくる御者と執事と門番は、そのむかしワイルドのむらさきの円外套(まるがいとう)をわらった御者と執事と門番に完全に――服装以外は――おなじである。しずかに過去を歩こうと思えばこのメイフェアに限る。近代化、もしくは亜米利加(アメリカ)化しつつあるいまのロンドンに、いぎりすらしく頑固に、そして忠実に倫敦(ロンドン)を保っているのはメイフェアと霧だけだからだ。十八世紀の中頃までは、毎年|五月(メイ)にここに|お祭(フェア)があって、この名もそこから来ているのだという。なるほどメイフェアの家は一つひとつが古いエッチングのように重く錆(さ)びている。そのなかの半月街に、一つちょっと通りへ出張った窓があるが、シェレイが快活な表情と輝かしい眼とで、本を手に、朝から晩まですわっているのがおもてから見えたというのはここだ。鳥籠と餌入れと水がないだけで、まるで若い貴婦人に飼われている雲雀(ひばり)が、日光のなかで歌うために出窓へ吊るされているようだと当時近処の人が陰口をきいたほど、この半月街の窓とシェレイとは離れられないものになっている。つぎのクラアジス街三番邸には一時マコウレイが住んでいたことがあり、三二番はよくバイロンが訪問したので有名だし、ボルトン街にはドュ・アブレイ夫人のいた家があり、そこの玄関にしばしばウォルタア・スコットの姿を見かけたそうだし、チャアルス街四二番はボウ・ブラメルの住宅だったし、ボンド街は倫敦のルウ・ドュ・ラ・ペエだし、アルブマアル五十番は、この屋根の下でバイロンとスコットがはじめて会っているし――そうしていま、そのメイフェアの西端パアク・レインに、弁天小僧の、切られ与三(よさ)の、直侍(なおざむらい)の、とにかく日本KABUKIの「たちばなや」が印度大名(マハラジャ)のごとき国際的意気をもって雄々しくも――フジヤマとサムライとゲイシャの芸術国から――乗り込んで来ているのだ。パアク・レイン・ホテルは新しい建物で、さして大きくはないがまず一流。朝の十時、まだあの有名な耳が枕に押しついている頃おい――枕をはなれたが最後、耳も耳の主人もともに外出して、終日|印度大名(マハラジャ)の一行のごとくうろつく危険があるから――を狙って、こうして私は彼女を引具し、職務に興味をもつ――というのはつまり入社後間もない――フリイト街の犬――新聞記者――みたいに奇襲して来た次第である。BANZAI!
と言うと、いかにも私が、デエリイ何とかの訪問記者にでもなって、この「日本|むすめ(フラッパア)の寵神(アイドル)」――じっさいデエリイ何とか紙は羽左衛門の写真を掲げてこういう説明をつけていた。再びBANZAI!――から何段かを埋めるに足る Story を引き出すべく、常鋭鉛筆(エヴァ・シャアプ)を片手に「好意的批評眼」をぽけっとに忍ばせ、いまし編輯長の激励裡に「紙屑の谷」を駈け出して来たように聞えるが、じつはただ、たまたまこの六月の朝、単なる旅行者としての私と彼女が、Doing the London の重要な一つであるかの名だたるメイフェア彷徨を実行しながら、英文学の教授みたいに温厚なそしてクラシックな品位を養いつつある最中、ピカデリイへ足を向けようとしてちょうどパアク・レインへさしかかったとたん――いったい何ごとによらずいつも「思いつく」のは彼女にきまってるんだが、この時も彼女が思いついて、and as an idea came to her 歩道に急止して私を使嗾(しそう)したのである。
この近所のホテルに羽左衛門が来てますよ、と。記憶が私を強打した。倫敦(ロンドン)の英字日本新聞アサヒ・ブレテンにこう出ていた――。
巴里(パリー)より来倫したる市村羽左衛門氏夫妻は目下ピカデリイのパアク・レイン・ホテルに宿泊中。ちなみに近日|蘇格蘭土(スコットランド)に遊び、帰来六月下旬まで滞英の由。
ついでだが、この新聞はなかなか奇抜で、じつによくロンドンにおける「日本紳士(ジャパニイス・ジェントルマン)」の動勢を調査し、細大|洩(も)らさず報道している。まず役所・銀行・日本関係の公共機関の所在からはじめて、個人の移転到着退国はもちろん、出産結婚死亡にいたるまでなに一つこの紙面から逃れることは不可能だ。それに広告がふるってる。
日本語で印刷してある部分だけ見本に二、三。
多年日本紳士|諸彦(しょげん)ノ御引立ヲ蒙(こうむ)リ廉価ニ御調製|仕候(つかまつりそうろう)。
これはフェンチャアチ街一四九番のブリストウ&スタアリング洋服店。御|叮嚀(ていねい)に日本字の書き版である。
日本御料理仕出シ御旅館 日ノ出家
日本食料品製造元特約代理店トシテ特別安価ニ販売仕候
英国製毛布ヒザ掛類
製産地直接取引ノ為メ日本ニ輸出|卸値(おろしね)ト同様多少ニ拘(かかわ)ラズ勉強|仕(つかまつ)リ御便宜ノ為メ事務所トシテ日ノ出家ニ実物|取揃申居(とりそろえもうしおり)候|間(あいだ)御買上|被下度(くだされたく)候
創業千九百八年矢野商会
これも書いた字。次ぎは活版だ。
支那御料理|並(ならび)にすき焼
一、支那御料理特別献立
昼食壱|志(シリング)八|片(ペンス) 夕食弐志六片
其他(そのた)御尋ねに従い各位様の御嗜好に相叶(あいかな)い候御料理色々御紹介|可申上(もうしあぐべく)候
一、すき焼開始
牛鍋 弐|志(シリング)六|片(ペンス)
鳥鍋|及(および)豚鍋各参志及参志六片
鴨鍋及鯛ちり各参志
プライベイト大宴会室の設備も有之(これあり)候
これこそストランド「中国|飯店(めしや)」藤井(ふじい)米治(よねじ)氏大奮闘――の紙上披露である。すき焼開始並びに神秘的な豚鍋よ、永久にBANZAI!
さて、新聞のことはこれでいいとして羽左衛門だが――。
こういういきさつを経たのち、こつぜんとしてパアク・レイン・ホテルの帳場に出現した私たちである。市俄古(シカゴ)トリビュウンの写真班が亜米利加(アメリカ)漫遊中のニウジイランド鉱泉王を襲撃に来たように、うっかりしている番頭の顔へ、私は出来るだけ気取った発音を吹っかけてやる。
『ミスタ・ウザエモン・イチムラという日本の俳優の方が――。』
と言いかけた私は、じつはここらで、その赤毛の番頭が大いに感激の色を呈し、思わず、AH! とか、OH! とか多分の肯定と「!」を含んだ声を発することであろうと内心期待して、事実、そのためにちょっと言葉を切って先方に機会をあたえたくらいだけれど、鈍感に洋服を着せたごとき感あるかの番頭は、依然ぽかんとして、
『ミスタア誰(フウ)?』
『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――。』
羽左(うざ)もミスタア・ウザエモンじゃあどうもめりはりが合わなくて申訳ないが、これもこの場合まことに致し方ないというものは、橘家(たちばなや)さんや大師匠ではこの赤毛の「おとこしゅ」に一そう通じっこないんだから――。
現にまだ頓(とん)と合点がゆかないとみえて、かれ番頭(クラアク)は、灰いろの眼をぱちくりさせて謎に面したように黙っている。仮りにも羽左衛門(たちばなや)を知らないなんて、何たる――なんかといくらむかついてみたところで、ここは英吉利(イギリス)ロンドンの、しかもさっきもいうとおりのメイフェアである。英詩のごとく飽くまで上品に、そして、何よりも怒ってはいけない。
ここで、機をみるに敏な私は、とっさに羽左衛門こと市村録太郎(いちむらろくたろう)氏を英語ふうにもじったのである。
『The party I want is Mr. ラックテロ・アイチミュウラ。
Now, don't say you don't know him !』
『MR・R・アイチミュウラ、え?』
とサンスクリットの呪文を唱えるように口中に繰りかえしながら、「羽左衛門」を知らないほど間の抜けた彼の顔にも、漸時に了解の情がそれこそ倫敦(ロンドン)のしののめのように拡がってきて、
『|乞う待て(プリイズ・ウエイト)。』
なんかと仔細らしく指を上げてみせたのち、宿帳のところへ行って暫らく頁をめくっていたが、やがてのことに発見の喜悦とともに、
『おお! ミスタ・アイチミュラ、いええす、居ます、たしかにそういう名の人が泊っています――が、今は? と。さあ、お部屋にいますかどうか――。
六月末の蒸暑い曇った日で、戸外の、世紀的に古いロンドンの雑沓を貫いて、まえのピカデリイを走る自動車の警笛が、しっきりなしに、それでいて妙に遠く聞えている。
メイフェア――と言えば、「倫敦(ロンドン)のロンドン」だ。ベイスウォウタア、ベルグレヴィア、サウス・ケンシントン、それにこのメイフェアの四つが、いっぱんに倫敦(ロンドン)市内で一ばん高級な住宅街となっているが、メイフェアの持つ歴史と香気にくらべれば、ジョウジアン時代以後に出来た他の三つの区域は、厳正な意味で倫敦的であるべくあまりに生々しい。いいかえれば、それほどメイフェアの石と煉瓦は、雄弁に、じつに雄弁に倫敦を語っているのだ。この、十八世紀初期の建築が低い表階段を並べているメイフェアなる地点は、いろいろな装飾で取り巻かれた中心に小さな宝石が象眼してあるように、地理的にいえばごくせまい。南はピカデリイ、北はオックスフォウド街、東はボンド街、西はパアク・レインにかこまれた一廓に過ぎないが、小さな横町が無数に通っているので、生粋の倫敦人でもうっかりすると迷児(まいご)になるくらいだ。大富豪の邸宅――といったところで驚くほど小さな――に混(まじ)って、ばかに内部の暗い本屋や毛織物店が、時代と場処を間違えたように二、三軒かたまっていたりして、ここの街上で見かける紳士はどこまでもふるい英吉利(イギリス)国の紳士であり、角の太陽酒場(サン・イン)から口を拭きながら出てくる御者と執事と門番は、そのむかしワイルドのむらさきの円外套(まるがいとう)をわらった御者と執事と門番に完全に――服装以外は――おなじである。しずかに過去を歩こうと思えばこのメイフェアに限る。近代化、もしくは亜米利加(アメリカ)化しつつあるいまのロンドンに、いぎりすらしく頑固に、そして忠実に倫敦(ロンドン)を保っているのはメイフェアと霧だけだからだ。十八世紀の中頃までは、毎年|五月(メイ)にここに|お祭(フェア)があって、この名もそこから来ているのだという。なるほどメイフェアの家は一つひとつが古いエッチングのように重く錆(さ)びている。そのなかの半月街に、一つちょっと通りへ出張った窓があるが、シェレイが快活な表情と輝かしい眼とで、本を手に、朝から晩まですわっているのがおもてから見えたというのはここだ。鳥籠と餌入れと水がないだけで、まるで若い貴婦人に飼われている雲雀(ひばり)が、日光のなかで歌うために出窓へ吊るされているようだと当時近処の人が陰口をきいたほど、この半月街の窓とシェレイとは離れられないものになっている。つぎのクラアジス街三番邸には一時マコウレイが住んでいたことがあり、三二番はよくバイロンが訪問したので有名だし、ボルトン街にはドュ・アブレイ夫人のいた家があり、そこの玄関にしばしばウォルタア・スコットの姿を見かけたそうだし、チャアルス街四二番はボウ・ブラメルの住宅だったし、ボンド街は倫敦のルウ・ドュ・ラ・ペエだし、アルブマアル五十番は、この屋根の下でバイロンとスコットがはじめて会っているし――そうしていま、そのメイフェアの西端パアク・レインに、弁天小僧の、切られ与三(よさ)の、直侍(なおざむらい)の、とにかく日本KABUKIの「たちばなや」が印度大名(マハラジャ)のごとき国際的意気をもって雄々しくも――フジヤマとサムライとゲイシャの芸術国から――乗り込んで来ているのだ。パアク・レイン・ホテルは新しい建物で、さして大きくはないがまず一流。朝の十時、まだあの有名な耳が枕に押しついている頃おい――枕をはなれたが最後、耳も耳の主人もともに外出して、終日|印度大名(マハラジャ)の一行のごとくうろつく危険があるから――を狙って、こうして私は彼女を引具し、職務に興味をもつ――というのはつまり入社後間もない――フリイト街の犬――新聞記者――みたいに奇襲して来た次第である。BANZAI!
と言うと、いかにも私が、デエリイ何とかの訪問記者にでもなって、この「日本|むすめ(フラッパア)の寵神(アイドル)」――じっさいデエリイ何とか紙は羽左衛門の写真を掲げてこういう説明をつけていた。再びBANZAI!――から何段かを埋めるに足る Story を引き出すべく、常鋭鉛筆(エヴァ・シャアプ)を片手に「好意的批評眼」をぽけっとに忍ばせ、いまし編輯長の激励裡に「紙屑の谷」を駈け出して来たように聞えるが、じつはただ、たまたまこの六月の朝、単なる旅行者としての私と彼女が、Doing the London の重要な一つであるかの名だたるメイフェア彷徨を実行しながら、英文学の教授みたいに温厚なそしてクラシックな品位を養いつつある最中、ピカデリイへ足を向けようとしてちょうどパアク・レインへさしかかったとたん――いったい何ごとによらずいつも「思いつく」のは彼女にきまってるんだが、この時も彼女が思いついて、and as an idea came to her 歩道に急止して私を使嗾(しそう)したのである。
この近所のホテルに羽左衛門が来てますよ、と。記憶が私を強打した。倫敦(ロンドン)の英字日本新聞アサヒ・ブレテンにこう出ていた――。
巴里(パリー)より来倫したる市村羽左衛門氏夫妻は目下ピカデリイのパアク・レイン・ホテルに宿泊中。ちなみに近日|蘇格蘭土(スコットランド)に遊び、帰来六月下旬まで滞英の由。
ついでだが、この新聞はなかなか奇抜で、じつによくロンドンにおける「日本紳士(ジャパニイス・ジェントルマン)」の動勢を調査し、細大|洩(も)らさず報道している。まず役所・銀行・日本関係の公共機関の所在からはじめて、個人の移転到着退国はもちろん、出産結婚死亡にいたるまでなに一つこの紙面から逃れることは不可能だ。それに広告がふるってる。
日本語で印刷してある部分だけ見本に二、三。
多年日本紳士|諸彦(しょげん)ノ御引立ヲ蒙(こうむ)リ廉価ニ御調製|仕候(つかまつりそうろう)。
これはフェンチャアチ街一四九番のブリストウ&スタアリング洋服店。御|叮嚀(ていねい)に日本字の書き版である。
日本御料理仕出シ御旅館 日ノ出家
日本食料品製造元特約代理店トシテ特別安価ニ販売仕候
英国製毛布ヒザ掛類
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創業千九百八年矢野商会
これも書いた字。次ぎは活版だ。
支那御料理|並(ならび)にすき焼
一、支那御料理特別献立
昼食壱|志(シリング)八|片(ペンス) 夕食弐志六片
其他(そのた)御尋ねに従い各位様の御嗜好に相叶(あいかな)い候御料理色々御紹介|可申上(もうしあぐべく)候
一、すき焼開始
牛鍋 弐|志(シリング)六|片(ペンス)
鳥鍋|及(および)豚鍋各参志及参志六片
鴨鍋及鯛ちり各参志
プライベイト大宴会室の設備も有之(これあり)候
これこそストランド「中国|飯店(めしや)」藤井(ふじい)米治(よねじ)氏大奮闘――の紙上披露である。すき焼開始並びに神秘的な豚鍋よ、永久にBANZAI!
さて、新聞のことはこれでいいとして羽左衛門だが――。
こういういきさつを経たのち、こつぜんとしてパアク・レイン・ホテルの帳場に出現した私たちである。市俄古(シカゴ)トリビュウンの写真班が亜米利加(アメリカ)漫遊中のニウジイランド鉱泉王を襲撃に来たように、うっかりしている番頭の顔へ、私は出来るだけ気取った発音を吹っかけてやる。
『ミスタ・ウザエモン・イチムラという日本の俳優の方が――。』
と言いかけた私は、じつはここらで、その赤毛の番頭が大いに感激の色を呈し、思わず、AH! とか、OH! とか多分の肯定と「!」を含んだ声を発することであろうと内心期待して、事実、そのためにちょっと言葉を切って先方に機会をあたえたくらいだけれど、鈍感に洋服を着せたごとき感あるかの番頭は、依然ぽかんとして、
『ミスタア誰(フウ)?』
『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――。』
羽左(うざ)もミスタア・ウザエモンじゃあどうもめりはりが合わなくて申訳ないが、これもこの場合まことに致し方ないというものは、橘家(たちばなや)さんや大師匠ではこの赤毛の「おとこしゅ」に一そう通じっこないんだから――。
現にまだ頓(とん)と合点がゆかないとみえて、かれ番頭(クラアク)は、灰いろの眼をぱちくりさせて謎に面したように黙っている。仮りにも羽左衛門(たちばなや)を知らないなんて、何たる――なんかといくらむかついてみたところで、ここは英吉利(イギリス)ロンドンの、しかもさっきもいうとおりのメイフェアである。英詩のごとく飽くまで上品に、そして、何よりも怒ってはいけない。
ここで、機をみるに敏な私は、とっさに羽左衛門こと市村録太郎(いちむらろくたろう)氏を英語ふうにもじったのである。
『The party I want is Mr. ラックテロ・アイチミュウラ。
Now, don't say you don't know him !』
『MR・R・アイチミュウラ、え?』
とサンスクリットの呪文を唱えるように口中に繰りかえしながら、「羽左衛門」を知らないほど間の抜けた彼の顔にも、漸時に了解の情がそれこそ倫敦(ロンドン)のしののめのように拡がってきて、
『|乞う待て(プリイズ・ウエイト)。』
なんかと仔細らしく指を上げてみせたのち、宿帳のところへ行って暫らく頁をめくっていたが、やがてのことに発見の喜悦とともに、
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