踊る地平線 06 ノウトルダムの妖怪 - 谷 譲次 ( たに じょうじ )
踊る地平線
ノウトルダムの妖怪
1
『馬耳塞(マルセイユ)からでも逃げて来たかね?』
『はあ。マルセイユから逃げてきました。』
『船は辛いだろうな。なに丸(まる)かね?』
『日本船じゃありません。英吉利(イギリス)です。』
『英船か。食いものが非道(ひで)えからね。』
『食い物がひでえです。』
『しかしお前、そんなことを言って巴里(パリー)へ潜り込んでどうする? 領事館へ泣きついて、移民送還ででも帰るか。こいつも気が利かねえな。』
『そいつも気がきかないです。何とかして巴里で一旗上げたいと思うんですが――故里(くに)にあおふくろもいますし――。』
『どこかね? 国は。』
『鹿児島です。』
『おれあ下谷だ。もっとも子供の時に出たきり帰らねえんだが――しんさいはひどかったろうなあ!』
『震災はひどかったです。わたしも知らないんですが――。』
『AH! OUI! 新聞で見たよ。』
いやに星のちかちかするPARISの夜、聖(サン)ミシェル街の酒場、大入繁盛のLA・TOTOの一卓で、数十年来この巴里(パリー)の「|不鮮明な隅(オブスキュア・コウナア)」に巣をくっている大親分、日本老人アンリ・アラキと、親分のいわゆる「脱走いぎりす船員」たるジョウジ・タニイとが、こうして先刻(さっき)からボルドオ赤(ルウジ)――一九二八年醸造――の半壜(デミ)をなかにすっかり饒舌(しゃべ)りこんでいるのだ。
何からどう話を持って行っていいか――ま、とにかく、いやに星がちかちかしてタキシの咆哮する晩だったが、カラアを拒絶して一ばん汚ない古服を着用した私――ジョウジ・タニイ――が、多分の冒険意識をもって徹宵(てっしょう)巴里の裏町から裏まちをうろつくつもりで、ちかちかする星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛(パリーなまり)はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙(ねら)ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくりしたんだが、いきなりしゃ嗄(が)れ声の日本言葉(ジャポネ)が私の耳を打ったのである。
『|やあ(アロウ)! 一人かね?』
というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国(どこ)の人間だろう? お国者(くにもの)かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり黙り込んでいると、何でえ、支那(シノア)か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨(ルウド)に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん人間における一つの「仁義」である。つまり「港のわたり」なんだが、そんなことをしなくても日本人同士は一眼で判りそうなもんだと思う人があるかも知れないけれど、どうしてどうして一歩日本国を出てみると、早い話が、支那人だの馬来(マレイ)だのハワイアンだの印度(インド)だの、西班牙(スペイン)だの伊大公(デイゴ)だの91――9+1=10で猶太(ジュウ)――だのと「その他多勢」いろいろと紛らわしいやつが出没しているから、何事も必要は発明のおっかさんなりで、ちょいと石を投げる心もちでこの「やあ! 一人かね?」をやる次第で、これによって日本人という事も確定出来れば、また、忽(たちま)ちこのとおり十年の知己のごとく、一つ卓子(テーブル)でこの場合ではボルドオ赤(ルウジ)――半壜(デュミ)。一九二八年製――をSIPしようてんだから、これは仲なかどうして地球的に荒っぽい意気さの漲(みなぎ)るじんぎだと言わなければならない。
事実、馬耳塞(マルセイユ)でもリスボンでもハンブルクでもリヴァプウルでも、未知の日本人――そして日本帝国外務大臣発行の旅券を持たない人々――のあいだの最初の会話は、魔窟でも酒場でも波止場でも、必ずこうして開始されることにきまってる。
『やあ! 一人かね?』
これに対する応答も約束(コウド)により一定している。
『やあ! 一人かね?』
とおもむろに同じ文句を返してやるのだ。だからA「やあ! 一人かね!」B「やあ! 一人かね?」とこう一見まことに無邪気(イナセント)な、昨夜の悪友が今朝また省線で顔を合わしたような平旦な一街上劇の観を呈するんだが、こいつをいま「市民のことば」に翻訳してみると、A「やい! 手前(てめえ)はにっぽんだろう? 白状しろ!」であり、Bは「日本人だがどうした。大きにお世話だ!」となる。
どこから傍道(わきみち)へ外(そ)れたのか忘れちまったから、再び「夜の酒場、暗いLA・TOTO」へ引っ返して出直すとして――で、つまりその、そこで私が精々ぱり・ごろめかして独りで凄(すご)がっているところへ、突然この「港のわたり」をつけたやつがあるんだが、そんなに心得てるなら何もびっくりすることはないじゃないかと言うだろうけれど、私をどきんとさせたのは、その場所――誰だってこの深夜の巴里(パリー)サミシェルの「隠れたるラ・トト」でよもや日本語をぶつけられようとは思うまい――と、何よりもその声の主なる一人物の風体相貌とであった。
と言ったところで、べつに異様ないでたちをしていたわけじゃない。異様どころか、じろりと出来るだけ陰惨な一瞥をくれてこの「|やあ(アロウ)!」の出所を究明した私の眼に朦朧(もうろう)と――紫煙をとおして――うつったのは、何のへんてつもない、薄よごれた服装(なり)の日本のお爺さんだったが、それがにこにこしながら自分の酒杯(グラス)ひとつ持って私の食卓へ移ってきたのを見ると、私だって相当苦労を積んでるから三下(バム)か親分(ボス)かくらいは一眼で識別出来る。その、先生(シンサン)ばくちの貸元みたいに小柄なくせにでっぷり肥った巴里(パリー)無宿のアンリ・アラキ老――これは間もなく名乗りを聞いてわかったんだが――の身辺には、「七つの海」の潮の香がすっかり染みこんで、酸(サワ)も甘味(スウィイト)も舐(な)めつくしたと言ったような、一種の当りのいい人なつこさが溢れ、そしてその黒い細い眼の底に、若(わけ)えの、ついぞ見ねえ面(つら)だが、近頃めりけんからでも渡んなすったかね? といいたげな、いかさま大胆沈着・傍若無人の不敵な空気が、世慣れたこなしとともにうっそりと漂っているんだから、瞬間にして、私は思った。ははあ! これはただの旅人ではない。まさしく何のなにがしというれっきとした名のある大親分であろう、と。
だから、彼のあいさつに対しても咄嗟(とっさ)に私は幾分の敬語を加味して答えたくらいである。
『|やあ(アロウ)! 一人かね?』
『は。お一人ですか。』
こうして私の前にどっかと――じっさいどっかという親分的態度をもって――腰を下ろしたアンリ・アラキは、どういうものか最初から私を「馬耳塞(マルセイユ)から脱船してきた下級船員」に決めてかかっていたのだ。いつだって親分にさからうことは幾分の危険を意味するし、ことにこの際、べつにNON! なんかとわざわざ反対の意思を表明して立場をあきらかにする必要もないから、長い物には巻かれろで、そのままおとなしく「脱走船員――海の狼」に扮し切った私は、さてこそで、ちょいとこう船乗りらしく肩を揺すってぽけっとから紙(パピエ)を取り出し、そこは兼ねて習練で煙草を巻き出したんだが、この私の手の甲にさしずめ錨(いかり)に人魚でもあしらった刺青(ほりもの)でもあると大いに効果的で私も幅がきくんだけれど、無いものはどうも仕方がないとは言え、私はすくなからず気が引けている。が、その間も私と親分は「故国にほんのこと」、私の「今後の身の振り方」等々々につき非常にしんみりと語らいをかわしているのだ。
『この頃の若い人は意気地がねえな。仕様がねえじゃねえか。石炭船ぐれえ辛棒が出来なくちゃあ――。』
『どうも済みません。』
『ははははは。済みませんじゃないぜ。が、まあ、若いうちは何をしてもいいさ。
『船は辛いだろうな。なに丸(まる)かね?』
『日本船じゃありません。英吉利(イギリス)です。』
『英船か。食いものが非道(ひで)えからね。』
『食い物がひでえです。』
『しかしお前、そんなことを言って巴里(パリー)へ潜り込んでどうする? 領事館へ泣きついて、移民送還ででも帰るか。こいつも気が利かねえな。』
『そいつも気がきかないです。何とかして巴里で一旗上げたいと思うんですが――故里(くに)にあおふくろもいますし――。』
『どこかね? 国は。』
『鹿児島です。』
『おれあ下谷だ。もっとも子供の時に出たきり帰らねえんだが――しんさいはひどかったろうなあ!』
『震災はひどかったです。わたしも知らないんですが――。』
『AH! OUI! 新聞で見たよ。』
いやに星のちかちかするPARISの夜、聖(サン)ミシェル街の酒場、大入繁盛のLA・TOTOの一卓で、数十年来この巴里(パリー)の「|不鮮明な隅(オブスキュア・コウナア)」に巣をくっている大親分、日本老人アンリ・アラキと、親分のいわゆる「脱走いぎりす船員」たるジョウジ・タニイとが、こうして先刻(さっき)からボルドオ赤(ルウジ)――一九二八年醸造――の半壜(デミ)をなかにすっかり饒舌(しゃべ)りこんでいるのだ。
何からどう話を持って行っていいか――ま、とにかく、いやに星がちかちかしてタキシの咆哮する晩だったが、カラアを拒絶して一ばん汚ない古服を着用した私――ジョウジ・タニイ――が、多分の冒険意識をもって徹宵(てっしょう)巴里の裏町から裏まちをうろつくつもりで、ちかちかする星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛(パリーなまり)はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙(ねら)ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくりしたんだが、いきなりしゃ嗄(が)れ声の日本言葉(ジャポネ)が私の耳を打ったのである。
『|やあ(アロウ)! 一人かね?』
というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国(どこ)の人間だろう? お国者(くにもの)かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり黙り込んでいると、何でえ、支那(シノア)か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨(ルウド)に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん人間における一つの「仁義」である。つまり「港のわたり」なんだが、そんなことをしなくても日本人同士は一眼で判りそうなもんだと思う人があるかも知れないけれど、どうしてどうして一歩日本国を出てみると、早い話が、支那人だの馬来(マレイ)だのハワイアンだの印度(インド)だの、西班牙(スペイン)だの伊大公(デイゴ)だの91――9+1=10で猶太(ジュウ)――だのと「その他多勢」いろいろと紛らわしいやつが出没しているから、何事も必要は発明のおっかさんなりで、ちょいと石を投げる心もちでこの「やあ! 一人かね?」をやる次第で、これによって日本人という事も確定出来れば、また、忽(たちま)ちこのとおり十年の知己のごとく、一つ卓子(テーブル)でこの場合ではボルドオ赤(ルウジ)――半壜(デュミ)。一九二八年製――をSIPしようてんだから、これは仲なかどうして地球的に荒っぽい意気さの漲(みなぎ)るじんぎだと言わなければならない。
事実、馬耳塞(マルセイユ)でもリスボンでもハンブルクでもリヴァプウルでも、未知の日本人――そして日本帝国外務大臣発行の旅券を持たない人々――のあいだの最初の会話は、魔窟でも酒場でも波止場でも、必ずこうして開始されることにきまってる。
『やあ! 一人かね?』
これに対する応答も約束(コウド)により一定している。
『やあ! 一人かね?』
とおもむろに同じ文句を返してやるのだ。だからA「やあ! 一人かね!」B「やあ! 一人かね?」とこう一見まことに無邪気(イナセント)な、昨夜の悪友が今朝また省線で顔を合わしたような平旦な一街上劇の観を呈するんだが、こいつをいま「市民のことば」に翻訳してみると、A「やい! 手前(てめえ)はにっぽんだろう? 白状しろ!」であり、Bは「日本人だがどうした。大きにお世話だ!」となる。
どこから傍道(わきみち)へ外(そ)れたのか忘れちまったから、再び「夜の酒場、暗いLA・TOTO」へ引っ返して出直すとして――で、つまりその、そこで私が精々ぱり・ごろめかして独りで凄(すご)がっているところへ、突然この「港のわたり」をつけたやつがあるんだが、そんなに心得てるなら何もびっくりすることはないじゃないかと言うだろうけれど、私をどきんとさせたのは、その場所――誰だってこの深夜の巴里(パリー)サミシェルの「隠れたるラ・トト」でよもや日本語をぶつけられようとは思うまい――と、何よりもその声の主なる一人物の風体相貌とであった。
と言ったところで、べつに異様ないでたちをしていたわけじゃない。異様どころか、じろりと出来るだけ陰惨な一瞥をくれてこの「|やあ(アロウ)!」の出所を究明した私の眼に朦朧(もうろう)と――紫煙をとおして――うつったのは、何のへんてつもない、薄よごれた服装(なり)の日本のお爺さんだったが、それがにこにこしながら自分の酒杯(グラス)ひとつ持って私の食卓へ移ってきたのを見ると、私だって相当苦労を積んでるから三下(バム)か親分(ボス)かくらいは一眼で識別出来る。その、先生(シンサン)ばくちの貸元みたいに小柄なくせにでっぷり肥った巴里(パリー)無宿のアンリ・アラキ老――これは間もなく名乗りを聞いてわかったんだが――の身辺には、「七つの海」の潮の香がすっかり染みこんで、酸(サワ)も甘味(スウィイト)も舐(な)めつくしたと言ったような、一種の当りのいい人なつこさが溢れ、そしてその黒い細い眼の底に、若(わけ)えの、ついぞ見ねえ面(つら)だが、近頃めりけんからでも渡んなすったかね? といいたげな、いかさま大胆沈着・傍若無人の不敵な空気が、世慣れたこなしとともにうっそりと漂っているんだから、瞬間にして、私は思った。ははあ! これはただの旅人ではない。まさしく何のなにがしというれっきとした名のある大親分であろう、と。
だから、彼のあいさつに対しても咄嗟(とっさ)に私は幾分の敬語を加味して答えたくらいである。
『|やあ(アロウ)! 一人かね?』
『は。お一人ですか。』
こうして私の前にどっかと――じっさいどっかという親分的態度をもって――腰を下ろしたアンリ・アラキは、どういうものか最初から私を「馬耳塞(マルセイユ)から脱船してきた下級船員」に決めてかかっていたのだ。いつだって親分にさからうことは幾分の危険を意味するし、ことにこの際、べつにNON! なんかとわざわざ反対の意思を表明して立場をあきらかにする必要もないから、長い物には巻かれろで、そのままおとなしく「脱走船員――海の狼」に扮し切った私は、さてこそで、ちょいとこう船乗りらしく肩を揺すってぽけっとから紙(パピエ)を取り出し、そこは兼ねて習練で煙草を巻き出したんだが、この私の手の甲にさしずめ錨(いかり)に人魚でもあしらった刺青(ほりもの)でもあると大いに効果的で私も幅がきくんだけれど、無いものはどうも仕方がないとは言え、私はすくなからず気が引けている。が、その間も私と親分は「故国にほんのこと」、私の「今後の身の振り方」等々々につき非常にしんみりと語らいをかわしているのだ。
『この頃の若い人は意気地がねえな。仕様がねえじゃねえか。石炭船ぐれえ辛棒が出来なくちゃあ――。』
『どうも済みません。』
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4thシーズン - L.S.L.対戦表 - L.S.L.対戦表
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