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踊る地平線 09 Mrs.7 and Mr.23 - 谷 譲次 ( たに じょうじ )

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踊る地平線 Mrs. 7 and Mr. 23      1  蜜蜂の群の精励を思わせる教養ある低い雑音の底に、白い運命の玉がシンプロン峠の小川のような清列なひびきを立てて流れていた。  シャンベルタンの谷の冬の葡萄畑をロウザンヌ発|大特急(グラン・ラピイド)の食堂車の窓から酔った眼が見るような一面に暖かい草色テュニス絨毯なのである。それを踏んで、あたしいま香料浴を済ましてきたところなの、と彼女の全身の雰囲気が大声に公表している、中年近い女が来て私の横にならんだ。肘(ひじ)が私に触れて、彼女が言った。
『数は? 何が出て?』
 答えるまえに、私はゆっくりとその女を研究した。
 近東型の広い紺いろの顔が、八月地中海が誇る銀灰色さざなみによって風景画的に装飾されていた。私はきのうモナコの岩鼻から見物したモウタ・ボウトの国際競争聯想しなければならなかった。しかし私は、そのことは彼女に話さなかった。彼女臙脂(えんじ)色の満唇(フル・リプス)と黒いヴェネツィア笹絹の夜礼服とが、いつかラトヴィヤのホテルで前菜(オウドゥブル)に食べた、私の大好きな二種の露西亜筋子(ロシアキャヴィア)の附け合せと同じ効果を出していたからだ。私は鋭利な食慾を感じた。そして食慾はいつも私を無言にする。で、私は私の視線を彼女下部に投げることによって、この、自分娘よりも若いに相違ない中婆さんを慰楽(アミュウズ)しようと試みた。
 彼女の属する社会層は瞬間の私にとって完全な神秘だった。が、私はいま何よりもじぶんのいる場処をはっきりと認識しなければならない。このモンテ・カアロの博奕場(キャジノ)では、どんな神秘個人の関心を強(し)いはしないのだ。じっさいいかに小さな異常現象へでもすこしの好奇心を振り向けることは、ここの多角壁の内部ではそれだけで一つの「許せない規則違反」なのだ。そこで私はただ聖(サン)マルタン水族館門番のように、黙ったままこころのなかで彼女の足へ最敬礼することで満足したのである。
 がめたるの靴下が慄悍(ひょうかん)な脛(すね)を包んで、破けまいと努力していた。その輪廓は脂肪過多の傾向からはずっと遠かった。アキレス氏|腱(すじ)は張り切って、果物ナイフの刃のように外へむかってほそく震えていた。私の眼にも判る一|大きさ(サイズ)小さなゴブラン織りの宮廷靴が、蹴合(けあ)いに勝って得意な時の鶏の足のような華奢(きゃしゃ)な傲慢さで絨毯の毛波(ケバ)を押しつけていた。彼女が足を移動すると、そのけばは一せいに起き上って、絨毯のうえの靴あとが見てる間に周囲に吸われて消えた。あまり繊細に、そして音律的に足が動くので、そのうちに私は、じつは彼女が、咽喉(のど)の奥で唄う高速度曲に合わせブダペスト風の踊りを真似してるのであることを知った。
『ね、何を見ていらっしゃるの?』
 この中婆さん微笑らしいもので私の近代騎士性を賞美するのである。それから彼女は、伊太利(イタリー)RIVIERAの聖(サン)レモで、眼と声の腐った不潔な少女達が悪魔よけの陶製の陽物と一しょに売ってる、羅馬(ローマ)皮に金ぴかの戦車を飛び模様に置いた手提(バッグ)をあけて、煙草の挟んでない象牙の長パイプを取り出し、直ぐにそれを指先で廻しはじめた。電灯の光矢(こうし)がぶつかって、花火のように音を発して散った。私はこの意味の不明瞭な手品に見入っていた。
『あたしね、ちょいと卓子(テーブル)を明けたの。いま何番が出て?』
 今度はリラとすぺいん葱(ねぎ)のまじったにおいが彼女の口から私の嗅覚を撫でた。この女は歓喜の絶頂で泣きながら男の鼻を噛む種類であると私は測定した。またこの場合、返事はすべて仏蘭西(フランス)語でされるのでなければ罪悪であることも私は心得ていた。ところで、私は流暢なふらんす語を話すのである。
『番号は三十六です、マダム。』
 私は給仕長のように散漫な好色を隠して言った。
 すると、罩(こ)もった空気を衝(つ)いて彼女金属性の微風が掠(かす)めたのだ。
『あら! どうしてそれを御存じ? 三六号はオテル・エルミタアジュのあたしの部屋の番号よ。』
 彼女の胸で二つの小丘がわなないた。同時にCIRO真珠飾りがちらちらと鳴いて、彼女は歯を見せずに笑った。ぷろしゃ聯隊伍長のように青々といが栗に刈った頭がいつまでもいつまでも笑いに揺れているのである。それにしても、どうして私は彼女の部屋の番号なんぞ知っていたんだろう? 私はあわてて、36はいま私の立ってるルウレット卓子(テーブル)で玉の落ちた番号に過ぎないと彼女に告げた。が、そのときはもう全然ほかの興味に彼女は身を委(ゆだ)ねていた。雨の日のシャンゼリゼエに留度(とめど)もなく滑る自動車車輪(タイヤ)のように、彼女自分の心頭(しんとう)がどこへ流れて行くかじぶんで知らないのである。またその自動車の後窓に、都会迷信中の傑作として護謨(ごむ)糸に吊るされて踊ってる身振り人形のピエロのように、彼女近代速度備えた淡いエゴイズム一本感覚の尖端にぶら下ってるのだ。
 言葉彼女上半身とがいっしょに饒舌(しゃべ)り出した。
『わっら! ムシュウ。ほら、あすこに、そばへ寄るときっとラックフォルト乾酪(チーズ)と酸菜(サワクラウト)のにおいのしそうな、伯林(ベルリン)ドロティン・ストラッセ街から来た紳士がいるでしょう? あの肥った、そら、いま乾板現像液で茶色に染まってる手を出して、他人の賭金(ステイキ)を誤魔化(ごまか)してさらえ込もうとしている――AA! 何て素走(すばし)っこい事業でしょう! あたしはあの人を讃美します。いいえ、あの人はハンブルグの荷上(にあげ)人夫ではないのです。コロンの郊外生産工場を持っていて、半世紀来|欧羅巴(ヨーロッパ)じゅうの客車貨物列車へ打ってきた鋲(びょう)の供給なのです。あの人の手はいつも他人(ひと)のぽけっとへ這入りたがってうずうずしています。あの人は毎朝熱湯入浴してじぶんの身体(からだ)と一しょに茹(ゆ)でた玉子お湯のなかで食べるのです。


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