踊る地平線 10 長靴の春 - 谷 譲次 ( たに じょうじ )
踊る地平線
長靴の春
1
反照電熱機のような、香橙色(オレンジ)の真(ま)ん円(まる)な夕陽を、地中海が受け取って飲み込んだ。同時に、いろいろの鳥が一せいに鳴き出して、白楊(はくよう)の林が急に寒くなった。私は、それらの現象を、すこしも自分に関係のないものとして、待合室の窓から眺めていた。その窓|硝子(ガラス)には、若い春の外気が、繊細な花模様を咲かせていた。
そこは、ふらんすと伊太利(イタリー)の国境駅のヴァンテミイユだった。
小停車場は、埃塵(ほこり)をかぶって白かった。そして、油灯(ゆとう)のくすぶる紫いろの隅々に、貧しいトランクの山脈と一しょに、この産業の自由流動と、それによる同色化傾向の濃厚な近代社会に、何とかして無理にも史的境界と、その尊厳を保とうとする国家なるものの喜劇的重大性が、無関心な流行者の哀愁にまで立ち罩(こ)めていた。それは私に、戦線のにおいをさえ嗅がせた。伊太利(イタリー)と仏蘭西(フランス)の二つの国家によって、そこの空気は二倍の比重を持っていたからだ。どこかバルチック海に沿う新興共和国の大統領護身兵のような、考え抜いた制服の、一人の鼻の尖(とが)った青年が、ふらんす側の車窓から、玄妙な言葉で私の荷物を強奪した。手荷物運搬人だった。それから、退屈な国境の儀式が開始された。
旅券。仏蘭西(フランス)の出国スタンプ。写真と顔の比較。亡命客のように陰鬱な、あわただしい旅行者の行列。一人ずつ、小さな、それでいて何と多くの議論のあったであろう屋内柵を過ぎると、もうそこで、私達は仏蘭西から伊太利(イタリー)へ這入ったのだった。
憲兵。警官。国境防備軍の歩哨。かれは、一本の羽毛を飾った狩猟帽をかぶって、自分の身長よりも高い銃剣で、新入国者にファシスト的な無言の警告を与うべく努力していた。真っ暗だった。停電だったのだ。また旅券。伊太利入国スタンプ。質問の大暴風雨、つぎは税関である。
税関の役人は、貝殻のような眼をして私を白眼(にら)んだ。そうすることが彼の仕事なのだ。私は、用意の粉末微笑を取り出して、彼の上に振りかけた。無事に通関したとき、そばの亜米利加(アメリカ)の老婆が私にささやいた。
『伊太利人は、同じ拉丁(ラテン)系民族のなかでも、他人の所有物に対してあんまり興味を感じないほうに属します。これは非常にいいことです。』
停電はいつまでも続いた。私は、手探りで廊下を進んだ。そして、向うから黒い影が来るごとに、接吻するほど頬を近づけて、両替所のありかを訊いた。が、彼らはみなこの辺の農民らしく、モンパルナスの珈琲(コーヒー)店で仕上げを済ましたはずの私の仏蘭西(フランス)語は、彼等には通じそうもなかった。その上、停電と乗換と出入国の煩瑣(はんさ)な手続とが、みんなをすっかり逆上させていて、誰も私のために足を停めようとするものはなかった。しかし、両替所は、その二本の蝋燭(ろうそく)の灯りで、直ぐに私の前に浮かび上った。何かを、多分この停電を、怒ってるらしい若い女の冷淡な手が、私の法(フラン)を取り上げて、不思議な伊太利(イタリー)金のリラを抛り出した。
食堂(バフェ)には、僧院のにおいが冷たかった。が、それは、卓上の花挿しに立てた蝋燭の揺らぎと、熱心に、はじめてのマカロニと闘う赤い横顔と、お腹だけ白いフィジの水壜のためだったかも知れない。午後から、地中海の海岸線を私と同車して来た人々が、料理の湯気のなかから私に笑いかけていた。しかし、彼らと私との間には、ごく少数の了解と、多分の動物的好意とがあるだけだった。なぜなら、すこしでも私の話せる言語は、彼らの耳には、すべて単なる音響としかひびかなかったし、また、どんなに熱烈な彼らの主張も討論も、私にとっては音楽的価値以外の何ものでもなかったから。で、直ぐに私たちは、お互いに解らせようとする努力を諦めてしまった。けれど、私と彼らは、しじゅう眼を見合わせて、その眼を笑わせることによって、会話以上の社交的効果を保って同車して来たのだった。私達は、そこに満足な友情をさえ汲み取ることに成功していた。
私は、マントンで、巴里(パリー)風の洒落た服装と、竜涎香(アンバア)のにおいとを私の車室へ運び入れて、それから私も、彼とだけずっと饒舌(しゃべ)りこんで来た、若いルセアニアの商人が、私を、自分の前の空(あき)椅子へ招待するのに任せた。銀灰色の細毛の密生した彼の手首に、六種の色彩の大理石を金で繋(つな)いだ鎖が掛かっていた。その小さな大理石の一つは腕時計だった。
そこは、ふらんすと伊太利(イタリー)の国境駅のヴァンテミイユだった。
小停車場は、埃塵(ほこり)をかぶって白かった。そして、油灯(ゆとう)のくすぶる紫いろの隅々に、貧しいトランクの山脈と一しょに、この産業の自由流動と、それによる同色化傾向の濃厚な近代社会に、何とかして無理にも史的境界と、その尊厳を保とうとする国家なるものの喜劇的重大性が、無関心な流行者の哀愁にまで立ち罩(こ)めていた。それは私に、戦線のにおいをさえ嗅がせた。伊太利(イタリー)と仏蘭西(フランス)の二つの国家によって、そこの空気は二倍の比重を持っていたからだ。どこかバルチック海に沿う新興共和国の大統領護身兵のような、考え抜いた制服の、一人の鼻の尖(とが)った青年が、ふらんす側の車窓から、玄妙な言葉で私の荷物を強奪した。手荷物運搬人だった。それから、退屈な国境の儀式が開始された。
旅券。仏蘭西(フランス)の出国スタンプ。写真と顔の比較。亡命客のように陰鬱な、あわただしい旅行者の行列。一人ずつ、小さな、それでいて何と多くの議論のあったであろう屋内柵を過ぎると、もうそこで、私達は仏蘭西から伊太利(イタリー)へ這入ったのだった。
憲兵。警官。国境防備軍の歩哨。かれは、一本の羽毛を飾った狩猟帽をかぶって、自分の身長よりも高い銃剣で、新入国者にファシスト的な無言の警告を与うべく努力していた。真っ暗だった。停電だったのだ。また旅券。伊太利入国スタンプ。質問の大暴風雨、つぎは税関である。
税関の役人は、貝殻のような眼をして私を白眼(にら)んだ。そうすることが彼の仕事なのだ。私は、用意の粉末微笑を取り出して、彼の上に振りかけた。無事に通関したとき、そばの亜米利加(アメリカ)の老婆が私にささやいた。
『伊太利人は、同じ拉丁(ラテン)系民族のなかでも、他人の所有物に対してあんまり興味を感じないほうに属します。これは非常にいいことです。』
停電はいつまでも続いた。私は、手探りで廊下を進んだ。そして、向うから黒い影が来るごとに、接吻するほど頬を近づけて、両替所のありかを訊いた。が、彼らはみなこの辺の農民らしく、モンパルナスの珈琲(コーヒー)店で仕上げを済ましたはずの私の仏蘭西(フランス)語は、彼等には通じそうもなかった。その上、停電と乗換と出入国の煩瑣(はんさ)な手続とが、みんなをすっかり逆上させていて、誰も私のために足を停めようとするものはなかった。しかし、両替所は、その二本の蝋燭(ろうそく)の灯りで、直ぐに私の前に浮かび上った。何かを、多分この停電を、怒ってるらしい若い女の冷淡な手が、私の法(フラン)を取り上げて、不思議な伊太利(イタリー)金のリラを抛り出した。
食堂(バフェ)には、僧院のにおいが冷たかった。が、それは、卓上の花挿しに立てた蝋燭の揺らぎと、熱心に、はじめてのマカロニと闘う赤い横顔と、お腹だけ白いフィジの水壜のためだったかも知れない。午後から、地中海の海岸線を私と同車して来た人々が、料理の湯気のなかから私に笑いかけていた。しかし、彼らと私との間には、ごく少数の了解と、多分の動物的好意とがあるだけだった。なぜなら、すこしでも私の話せる言語は、彼らの耳には、すべて単なる音響としかひびかなかったし、また、どんなに熱烈な彼らの主張も討論も、私にとっては音楽的価値以外の何ものでもなかったから。で、直ぐに私たちは、お互いに解らせようとする努力を諦めてしまった。けれど、私と彼らは、しじゅう眼を見合わせて、その眼を笑わせることによって、会話以上の社交的効果を保って同車して来たのだった。私達は、そこに満足な友情をさえ汲み取ることに成功していた。
私は、マントンで、巴里(パリー)風の洒落た服装と、竜涎香(アンバア)のにおいとを私の車室へ運び入れて、それから私も、彼とだけずっと饒舌(しゃべ)りこんで来た、若いルセアニアの商人が、私を、自分の前の空(あき)椅子へ招待するのに任せた。銀灰色の細毛の密生した彼の手首に、六種の色彩の大理石を金で繋(つな)いだ鎖が掛かっていた。その小さな大理石の一つは腕時計だった。
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- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=cybex%82%cc%92l%92i&sid=000
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