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身毒丸 - 折口 信夫 ( おりくち しのぶ )

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(シントクマル)の父親は、住吉から出た田楽師であつた。けれども、今は居ない。身毒はをり/\その父親に訣れた時の容子を思ひ浮べて見る。身毒はその時九つであつた。
住吉の御田植神事(オンダシンジ)の外は旅まはりで一年中の生計を立てゝ行く田楽法師子どもは、よた/\と一人あるきの出来出す頃から、もう二里三里の遠出をさせられて、九つの年には、父親らの一行大和を越えて、伊賀伊勢かけて、田植能の興行に伴はれた。信吉法師というた彼の父は、配下に十五六人の田楽法師を使うてゐた。朝間、馬などに乗らない時は、疲れると屡(ヨク)若い能芸人の背に寝入つた。さうして交る番に皆の背から背へ移つて行つた。時をり、うす目をあけて処々の山や川の景色を眺めてゐた。ある処では青草山を点綴して、躑躅の花が燃えてゐた。ある処は、広い河原に幾筋となく水が分れて、名も知らぬ鳥が無数に飛んでゐたりした。さういふ景色と一つに、模糊とした羅衣(ウスギヌ)をかづいた記憶のうちに、父の姿の見えなくなつた、夜の有様も交つてゐた。
その晩は、更けて月が上(ノボ)つた。身毒は夜|中(ナカ)にふと目を醒ました。見ると、信吉法師が彼の肩を持つて、揺ぶつてゐたのである。
――おまへにはまだ分るまいがね」といふ言葉前提に、彼(カ)れこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話してゐたが、大抵は覚えてゐない。此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れ片(ハシ)の様にも思はれ出した。唯この前提が、その時、少しばかり目醒めかけてゐた反抗心を唆つたので、はつきりと頭に印せられたのである。その時五十を少し出てゐた父親の顔には、二月ほど前から気味わるいむくみが来てゐた。父親が姿を匿す前の晩に着いた、奈良はづれの宿院風呂上り場で見た、父の背を今でも覚えてゐる。蝦蟇の肌のやうな、斑点が、膨れた皮膚に隙間なく現れてゐた。
――とうちやんこれは何うしたの」と咎めた彼の顔を見て、返事もしないで面を曇らしたまゝ、急に着物をひつ被つた。記憶を手繰つて行くと、悲しいその夜に、父の語つた言葉がまた胸に浮ぶ。
父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。その為に父は得度して、浄い生活をしようとしたのが、ある女の為に堕ちて、田舎聖の田楽法師仲間に投じた。父の居つた寺は、どうやら書写山であつたやうな気がする。それだから、身毒法師になつて、浄い生活を送れというたやうに、稍世間の見え出した此頃の頭には、綜合して考へ出した。唯、からだを浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、一代きりにたやす所以だというたのか、どちらへでも朧気な記憶は心のまゝに傾いた。
身毒は、住吉神宮寺に附属してゐる田楽法師の瓜生野といふ座に養はれた子方で、遠里小野の部領の家に寝起きした。
この仲間では、十一二になると、用捨なくごし/\髪を剃つて、白い衣に腰衣を着けさせられた。ところが身毒ひとりは、此年十七になるまで、剃らずにゐた。身毒は、細面に、女のやうな柔らかな眉で、口は少し大きいが、赤い脣から漏れる歯は、貝殻のやうに美しかつた。額ぎはからもみ上げへかけての具合、剃り毀つには堪へられない程の愛着が、師匠源内法師の胸にあつた。今年は、今年はと思ひながら、一年延しにしてゐた。そして、毎年行く国々の人々から唯一人なる、この美しい若衆はもて囃されてゐた。牛若というたのは、こんな人だつたらうなどいふ評判が山家片在所の女達の口に上つた。
今年五月の中頃、例年行く伊勢の関の宿で、田植踊りのあつた時、身毒は傘踊りといふ危い芸を試みた。これは高足駄を穿いて足を挙げ、その間を幾度も/\長柄の傘を潜らす芸である。
苗代は一面に青み渡つてゐた。野天に張つた幄帳の白い布に反射した緑色の光りが、大口袴を穿いた足を挙げる度に、雪のやうな太股のあたりまでも射し込んだ。関から鈴鹿を踰えて、近江路を踊り廻つて、水口の宿まで来た時、一行の後を追うて来た二人の女があつた。それは、関の長者の妹娘が、はした女一人を供に、親の家を抜け出して来たのであつた。
耳朶まで真赤にして逃げるやうに師匠居間へ来た身毒長者の娘のことを話した。師匠慳貪な声を上げて、二人を追ひ返した。
何も知らぬ身毒は、其夜一番鶏が鳴くまで、師匠折檻に会うた。
夜があけて、弟子どもが床を出たときに、青々と剃り毀たれた頭を垂れて、庭の藤の棚の下に茫然と彳んでゐる身毒見出した。源内法師居間には、髪の毛焼いたらしい不気味な臭ひが漂うてゐた。師匠晴れやかな顔をして、廂に射し込む朝の光りを浴びてゐた。然しそれは間もなく、制※迦童子渾名せられてゐる弟子一人に肩を扼せられて出て来た、身毒の変つた姿を目にした咄嗟に、曇つて了つた。

何も驚くことはない。


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