輝ける朝 - 水野 仙子 ( みずの せんこ )
さうだ、私はそれを忘れないうちに書きとめて置かう。この輝いた喜の消え去らぬうちに、このさわやかな心持のうすれゆかぬうちに……私はこの朝の氣持を、決して忘れる事はないであらうけれども、だからといつて書きとめて置く事の決して無益なことではあるまいと思ふ。却つて私の病に於ける無爲の時間が、その爲に生きこそはしても。
それは昨夜のことであつた。……いや私は先づいきなりその事に筆を進める前に、ついでだから少し自分のこの頃の状態をも記して置かう。
日記を怠つてからもう七年になる。もし私がこの世から消え去つたならば、極めて少數の人に送つた手紙以外には、私自身の直接に觸れた生活は、その斷片をも人に窺はれなくなるであらう。(嘗て丹念につけたことのある日記も今はすべて燒いてしまつた。)そしてそれでいゝのだ。私といふ者がないあと、私に關したすべての事は消え去れ! 私は遺して置かなければならぬ何物をも持つてゐないと信じてゐる。そしてそれは一番己を知つた言葉だと思つてゐる。私は別に豪(えら)い人間でも、感心な人物でもない。人は別に私の生ひたちやその履歴を必要としないであらう。だからこそ私は氣安くその日その日を送つてゐられるのだ。
けれども、それは決して私がうかうかとのんきに日を暮してゐるといふ意味ではない。私とても生きてゐる以上は、何かこの世もしくは人々の上に役に立つことをしたいと思ふ。さうしてある場合その自信を失つた時には、せめて無害な人間でありたいと思つて心を配る。そんな時には一寸廊下のたたずみにも、もしや人の邪魔になりはしないかと、おどおど自分の身をせばめたりする。或は私の良心も病んでいぢけてゐるのかも知れない。で、實をいふと、私位氣をつけてその日その日を送つてゐる者も少いのだ。こんなわけで、その日その日の記録を自分の心一つに疊んでしまふにはあまり惜しいやうな氣のする時もあるけれど、死後には何物をも遺すまいとする心から、それを文字にするといふ事はなるべく避けてゐる。それだのに今日はなぜか私の内部のものがそれを促して止まない。一度書いてまた灰にするとも、それではともかくその私の心の要求に從つて行かう。
この部屋がどういふ室であるかはあの壁に懸つた體温表が、無言ながら完全にそれを語つてゐる。大分熱は下つて來た、七度の赤い線をまん中にして、青い鉛筆の跡が、ちようど蒲公英(たんぽぽ)の葉の線のやうに延びて行く。親もなく、夫もなく、子もなく、たつた一人の兄弟より外にはなかつた身の、あまり劇しい生の執着とてはなかつたけれども、病氣がかうしてだんだん快くなつて見れば、やつぱり嬉しい。助かつたやうな氣がする。そしてその助かつたやうな氣のするところから、これまでにない命の貴さが感じられる。私はやつぱり生に執着がなかつたわけではなかつたのだらう。たゞあきらめの分子が、他の情實に纒(まと)はられた人よりも幾らか多かつたに過ぎないのであらう。私の鋏が切れ味よかつたわけではなく、私はたゞ切り易い布を持つてゐたに過ぎないのだ。ともあれ私は感謝する。そして私を癒したものゝ前に、私自身の生命を大切に哺(はぐく)んで行かう。
別に語る人とてはない田舍の病院の一室に、私はかくて寂しく滿足してゐる。朝な朝な昇る朝日は、そのうららかな影を斜に壁に投げ、暮れて行く日は障子を通し、硝子戸を透してゆふべゆふべに赤く輝く。やがて徐(おもむろ)に夜が來る。さうして靜なる眠の中へ、常に絶えざる「明日は」の希望に導かれて入つて行く。それは吾々の休息といふよりも、或は忘却すべく、或は新なる力の湧出を待つべく、その日その日に下される救である。さて私は時々夕方の檢温の結果などによつて、氣に入つた讃美歌の一くさりを誦(よ)み、ぽつかりと音もなくともる電燈を見つめながら、ベツドの上に四肢をのばしてゐる。こんな時、私の肉體と精神は最も自然に融和し、自己といふものをはつきり意識しなくなるために、時たま私の空虚を覗つて押し寄せる寂寥や、悲哀の念から全く脱却し、無念無想に近い境をさまよつてゐる。そして私はそんな時が非常に好きであつた。また病氣の上にも、それは微妙な好い働を働くに違ないと信じてゐる。
昨日の夕方もちようどこんな風な状態になつてゐた。そして私は幸福であつた。多くの幸福な人々の知らない、寂しい不幸な人間のみが時々味ひ得る、つゝましやかな自足した幸福さであつた。いつの間にか日はとつぷりと暮れてゐた。電燈は夜の世界から完全にこの一室を占領したのに滿足したらしく、一時自信をもつてその光輝を強めたけれども、やがて彼はその己の仕事になれた。さうして最早一定の動かない光をのみ、十分なる安心と、僅なる倦怠とのうちに發散した、恰も私一人の上にはそれで十分であると見きはめをつけたかの如くに。
私は無意識に手をのばして枕許にあつた本を取り上げた。それはグリムのお伽噺であつた。
それは昨夜のことであつた。……いや私は先づいきなりその事に筆を進める前に、ついでだから少し自分のこの頃の状態をも記して置かう。
日記を怠つてからもう七年になる。もし私がこの世から消え去つたならば、極めて少數の人に送つた手紙以外には、私自身の直接に觸れた生活は、その斷片をも人に窺はれなくなるであらう。(嘗て丹念につけたことのある日記も今はすべて燒いてしまつた。)そしてそれでいゝのだ。私といふ者がないあと、私に關したすべての事は消え去れ! 私は遺して置かなければならぬ何物をも持つてゐないと信じてゐる。そしてそれは一番己を知つた言葉だと思つてゐる。私は別に豪(えら)い人間でも、感心な人物でもない。人は別に私の生ひたちやその履歴を必要としないであらう。だからこそ私は氣安くその日その日を送つてゐられるのだ。
けれども、それは決して私がうかうかとのんきに日を暮してゐるといふ意味ではない。私とても生きてゐる以上は、何かこの世もしくは人々の上に役に立つことをしたいと思ふ。さうしてある場合その自信を失つた時には、せめて無害な人間でありたいと思つて心を配る。そんな時には一寸廊下のたたずみにも、もしや人の邪魔になりはしないかと、おどおど自分の身をせばめたりする。或は私の良心も病んでいぢけてゐるのかも知れない。で、實をいふと、私位氣をつけてその日その日を送つてゐる者も少いのだ。こんなわけで、その日その日の記録を自分の心一つに疊んでしまふにはあまり惜しいやうな氣のする時もあるけれど、死後には何物をも遺すまいとする心から、それを文字にするといふ事はなるべく避けてゐる。それだのに今日はなぜか私の内部のものがそれを促して止まない。一度書いてまた灰にするとも、それではともかくその私の心の要求に從つて行かう。
この部屋がどういふ室であるかはあの壁に懸つた體温表が、無言ながら完全にそれを語つてゐる。大分熱は下つて來た、七度の赤い線をまん中にして、青い鉛筆の跡が、ちようど蒲公英(たんぽぽ)の葉の線のやうに延びて行く。親もなく、夫もなく、子もなく、たつた一人の兄弟より外にはなかつた身の、あまり劇しい生の執着とてはなかつたけれども、病氣がかうしてだんだん快くなつて見れば、やつぱり嬉しい。助かつたやうな氣がする。そしてその助かつたやうな氣のするところから、これまでにない命の貴さが感じられる。私はやつぱり生に執着がなかつたわけではなかつたのだらう。たゞあきらめの分子が、他の情實に纒(まと)はられた人よりも幾らか多かつたに過ぎないのであらう。私の鋏が切れ味よかつたわけではなく、私はたゞ切り易い布を持つてゐたに過ぎないのだ。ともあれ私は感謝する。そして私を癒したものゝ前に、私自身の生命を大切に哺(はぐく)んで行かう。
別に語る人とてはない田舍の病院の一室に、私はかくて寂しく滿足してゐる。朝な朝な昇る朝日は、そのうららかな影を斜に壁に投げ、暮れて行く日は障子を通し、硝子戸を透してゆふべゆふべに赤く輝く。やがて徐(おもむろ)に夜が來る。さうして靜なる眠の中へ、常に絶えざる「明日は」の希望に導かれて入つて行く。それは吾々の休息といふよりも、或は忘却すべく、或は新なる力の湧出を待つべく、その日その日に下される救である。さて私は時々夕方の檢温の結果などによつて、氣に入つた讃美歌の一くさりを誦(よ)み、ぽつかりと音もなくともる電燈を見つめながら、ベツドの上に四肢をのばしてゐる。こんな時、私の肉體と精神は最も自然に融和し、自己といふものをはつきり意識しなくなるために、時たま私の空虚を覗つて押し寄せる寂寥や、悲哀の念から全く脱却し、無念無想に近い境をさまよつてゐる。そして私はそんな時が非常に好きであつた。また病氣の上にも、それは微妙な好い働を働くに違ないと信じてゐる。
昨日の夕方もちようどこんな風な状態になつてゐた。そして私は幸福であつた。多くの幸福な人々の知らない、寂しい不幸な人間のみが時々味ひ得る、つゝましやかな自足した幸福さであつた。いつの間にか日はとつぷりと暮れてゐた。電燈は夜の世界から完全にこの一室を占領したのに滿足したらしく、一時自信をもつてその光輝を強めたけれども、やがて彼はその己の仕事になれた。さうして最早一定の動かない光をのみ、十分なる安心と、僅なる倦怠とのうちに發散した、恰も私一人の上にはそれで十分であると見きはめをつけたかの如くに。
私は無意識に手をのばして枕許にあつた本を取り上げた。それはグリムのお伽噺であつた。
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