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連句雑俎 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

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     一 連句の独自性  日本アジア協会学報第二集第三巻にエー・ネヴィル・ホワイマント氏の「日本語および国民の南洋起原説」という論文が出ている。これはこの表題の示すごとく、日本国語の根源が南洋にある事を論証し、従って国民祖先大部分もまた南洋から渡来したものだと論断しようとするものである。この学説の当否についてはもちろん種々の議論があるであろうが、ここではもちろんそれは問題にしない。この論文の始めの序説中、日本人の独創能力に乏しい事を述べた一節に、チャンバレーン博士の言ったという言葉を引いて、「この邦土で純粋日本固有というべきものはただ二つ、それは風呂桶(ふろおけ)とそうしてポエトリーである」と述べている。また「もっと意地の悪いある批評家は『だれもたぶんこの二つのどれもを召し上げたいとは思わないだろう』と言った」とある。この所説の当否もここでは問題にしない。ただこのいわゆるポエトリーがここで何をさすかが問題である。不幸にして私はこのチャンバレーンの言葉がどこに発表されているかを知らないから今たしかにこの点を追究する道がない。しかしたぶんこれはまず和歌をさし、そうして事によると俳句も含まれているのではないかと思うのである。
 このように、これ以上惨酷にはあり得ないと思うほど惨酷な目で日本の文化をながめたときでさえ、ともかくも目立って見える日本固有の詩形の中でも特に俳諧連句(はいかいれんく)という独自なものの存在する事をこれらの毛唐人(けとうじん)どもが知っていたかどうか、たとえそういう詩形存在概念的に知っていたとしてもほんとうにその内容理解し正当に估価(こか)し得たであろうという事はほとんど不可能であると思われる。
 西洋人俳諧理解し得ないというのは、われわれ日本人が厳密に正当にゲーテやシェークスピア理解しないというのとはちがって、そこにもう一つ輪をかけた困難があると思われる。後者には世界人類に共通な人間性そのものが基調をなしているのに、前者には東洋人特に日本人に独自なある物がその存在の主要な基礎になっていると思われるからである。その基礎的要素とは何か、と問われればわれわれはまず単に「それが俳諧である」と答えるよりほかに道はない。
 何が俳諧であるかを一口や二口で説明するのは非常にむつかしいが、何が俳諧でないかを例示するほうが比較的やさしいようである。私の知る限りにおいてドイツ人俳諧の持ち合わせの最も乏しい国民である。彼らはたとえば、呼び鈴の押しボタンの上に「呼び鈴」とはり札をし、便所の箒(ほうき)には「便所の箒」と書かなければどうも安心のできない国民なのである。そのおかげでドイツの精密工業発達し、分析的にひどく込み入っためんどうな哲学が栄える。本来快楽目的とする音楽でさえもドイツ人の手にかかるとそれが高等数学数式行列のようなものになり、目を喜ばすべき映画でさえもこの国でできたものは見ていておのずから頭痛のして来るようなのがはなはだ多い。これに比べてフランスにはいくらかの俳諧があるように思われる。セーヌ河畔の釣(つ)り人や、古本店、リュクサンブール人形芝居美術学生ネクタイ、蛙(かえる)の料理にもどこかに俳諧ひとしずくはある。この俳諧がこの国の基礎科学ドイツ人の及ばない独自な光彩を与え、この国の芸術に特有な新鮮味を添えているのではないかとも思われる。たとえば近代物理学領域を風靡(ふうび)した「波動力学」のごときもその最初の骨組みはフランスの一貴族学者ド・ブローリーがすっかり組み立ててしまった。その「俳諧」の中に含まれた「さび」や「しおり」を白日の明るみに引きずり出してすみからすみまで注釈し敷衍(ふえん)することは曲斎的なるドイツ人仕事であったのである。芸術のほうでもマチスの絵やマイヨール彫刻にはどこかにわれわれの俳諧がある。これがドイツへはいると、たちまちに器械化数学化した鉄筋リアリズムになるのが妙である。
 ヒアガルの絵のように一幅の画面一見ほとんど雑然といろいろなものを気違いの夢の中の群像とでもいったように並べたのがある。日本人でもこのまねをするあほうがあるが、あれも本来のねらいどころはおそらく一種の「俳諧」であったに相違ない。ただこれは「時」の俳諧代わりに「空間」の俳諧を試みて、そうしてあまり成効しなかった一つの習作とも見らるるものである。
 しかしなんと言っても俳諧日本特産物である。それはわれわれの国土自身われわれの生活自身が俳諧だからである。ひとたび世界旅行して日本へ帰って来てそうして汽車東海道をずうっと一ぺん通過してみれば、いかにわが国自然人間生活がすでに始めから歌仙式(かせんしき)にできあがっているかを感得することができるであろうと思う。アメリカでは二昼夜汽車で走っても左右には麦畑のほか何もない所があるという話である。ドイツでは行っても行っても洪積期(こうせきき)の砂地のゆるやかな波の上にばらまいた赤瓦(あかがわら)の小集落と、キーファー松や白樺(しらかば)の森といったような景色が多い。日本景観多様性はたとえば本邦地質図の一幅を広げて見ただけでも想像される。それは一片のつづれの錦(にしき)をでも見るように多様な地質の小断片の綴合(てつごう)である。これに応じて山川草木の風貌(ふうぼう)はわずかに数キロメートル距離の間に極端な変化を示す。また気象図を広げて見る。地形の複雑さに支配される気温降水分布の複雑さは峠一つを隔ててそこに呉越(ごえつ)の差を生じるのである。この環境変化に応ずる風俗人情の差異の多様性もまたおそらく世界に類を見ないであろう。一つは過去封建制度によってこれが強調されたということは許容しても、人力のいかんともし難い天然環境影響は将来においてもおそらく永久継続するであろう。試みに中央線汽車甲州(こうしゅう)から信州(しんしゅう)へ分け入る際、沿道の民家建築様式あるいは単にその屋根の形だけに注意してみても、私の言うことが何を意味するかがおぼろげにわかるであろうと思う。
 このような天然の空間多様性のほかにもう一つ、また時間的の多様性においても日本はかなりに豊富に恵まれているのである。南洋中の島では一年じゅうがほとんど同じ季節であり、春夏秋冬はただの言葉である。ここでは俳諧は有り得ない。またたとえばドイツやイギリスにはほんとうの「夏」が欠如している。そうしてモンスーンのないかの地にはほんとうの「春風」「秋風」がなく、またかの地には「野分(のわき)」がなく「五月雨(さみだれ)」がなく「しぐれ」がなく、「柿紅葉(かきもみじ)」がなく「霜柱」もない。しかし大陸大洋との気象活動中心境界線にまたがる日本では、どうかすると一日の中に夏と冬とがひっくり返るようなことさえある。その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国風土の特徴であるように私には思われる。
 日本人宗教哲学の奥底には必ずこの自然的制約が深い根を張っている。


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