邪宗門 - 北原 白秋 ( きたはら はくしゅう )
父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、※オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』
例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
明治四十二年一月
著者識
魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………長田秀雄
邪宗門秘曲
われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。
黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍※(ちんた)の酒を。
目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、
禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、
芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、
波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。
屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、
ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火|点(とも)るといふ。
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、
珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。
あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、
腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、
はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は
美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。
いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、
百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも
惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、
善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
四十一年八月
室内庭園
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。
尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………
黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、
その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、
外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、
わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。
いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)の
にほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、
うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)
その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……
わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。
三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは
腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……
ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)の
あたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、
わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
四十一年十二月
陰影の瞳
夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、
廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、
はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、
縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。
如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、
帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、
ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
四十一年十月
赤き僧正
邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳|据(す)ゑつつ、
黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、
赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く
陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。
あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)に
ほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。
邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、※オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
昔(むかし)よりいまに渡(わた)り来(く)る黒船(くろふね)縁(えん)がつくれば鱶(ふか)の餌(ゑ)となる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』
例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
明治四十二年一月
著者識
魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………長田秀雄
邪宗門秘曲
われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。
黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色(いろ)赤(あか)きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍※(ちんた)の酒を。
目見(まみ)青きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、
禁制(きんせい)の宗門神(しゆうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、
芥子粒(けしつぶ)を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器(うつは)、
波羅葦僧(はらいそ)の空(そら)をも覗(のぞ)く伸(の)び縮(ちゞ)む奇(き)なる眼鏡(めがね)を。
屋(いへ)はまた石もて造り、大理石(なめいし)の白き血潮(ちしほ)は、
ぎやまんの壺(つぼ)に盛られて夜(よ)となれば火|点(とも)るといふ。
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり、
珍(めづ)らなる月の世界の鳥獣(とりけもの)映像(うつ)すと聞けり。
あるは聞く、化粧(けはひ)の料(しろ)は毒草(どくさう)の花よりしぼり、
腐(くさ)れたる石の油(あぶら)に画(ゑが)くてふ麻利耶(まりや)の像(ざう)よ、
はた羅甸(らてん)、波爾杜瓦爾(ほるとがる)らの横(よこ)つづり青なる仮名(かな)は
美(うつ)くしき、さいへ悲しき歓楽(くわんらく)の音(ね)にかも満つる。
いざさらばわれらに賜(たま)へ、幻惑(げんわく)の伴天連(ばてれん)尊者(そんじや)、
百年(もゝとせ)を刹那(せつな)に縮(ちゞ)め、血の磔(はりき)脊(せ)にし死すとも
惜(を)しからじ、願ふは極秘(ごくひ)、かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢、
善主麿(ぜんすまろ)、今日(けふ)を祈(いのり)に身(み)も霊(たま)も薫(くゆ)りこがるる。
四十一年八月
室内庭園
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤(あか)くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静(しづ)こころなし。
尽(つ)きせざる噴水(ふきあげ)よ………
黄(き)なる実(み)の熟(う)るる草、奇異(きゐ)の香木(かうぼく)、
その空にはるかなる硝子(がらす)の青み、
外光(ぐわいくわう)のそのなごり、鳴ける鶯(うぐひす)、
わかき日の薄暮(くれがた)のそのしらべ静(しづ)こころなし。
いま、黒(くろ)き天鵝絨(びろうど)の
にほひ、ゆめ、その感触(さはり)………噴水(ふきあげ)に縺(もつ)れたゆたひ、
うち湿(しめ)る革(かは)の函(はこ)、饐(す)ゆる褐色(かちいろ)
その空に暮れもかかる空気(くうき)の吐息(といき)……
わかき日のその夢の香(か)の腐蝕(ふしよく)静(しづ)こころなし。
三層(さんかい)の隅(すみ)か、さは
腐(くさ)れたる黄金(わうごん)の縁(ふち)の中(うち)、自鳴鐘(とけい)の刻(きざ)み……
ものなべて悩(なや)ましさ、盲(し)ひし少女(をとめ)の
あたたかに匂(にほひ)ふかき感覚(かんかく)のゆめ、
わかき日のその靄に音(ね)は響(ひゞ)く、静(しづ)こころなし。
晩春(おそはる)の室(むろ)の内(うち)、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水(ふきあげ)の水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮(く)るれども夢はなほ静(しづ)こころなし。
四十一年十二月
陰影の瞳
夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、
廃(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、
はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、
縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。
如何(いか)に呼(よ)べども静(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絶(た)えず涙して、
帰(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、
ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の青きひとすぢ……
四十一年十月
赤き僧正
邪宗(じやしゆう)の僧ぞ彷徨(さまよ)へる……瞳|据(す)ゑつつ、
黄昏(たそがれ)の薬草園(やくさうゑん)の外光(ぐわいくわう)に浮きいでながら、
赤々(あか/\)と毒のほめきの恐怖(おそれ)して、顫(ふる)ひ戦(をのゝ)く
陰影(いんえい)のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水(み)の面(も)なる葦(あし)のわか芽(め)に顫(ふる)ふ時。
あるは、靄ふる遠方(をちかた)の窓の硝子(がらす)に
ほの青きソロのピアノの咽(むせ)ぶ時。
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