野ざらし - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
一
「奇体な名前もあるもんですなあ……慾張った名前じゃありませんか。」
電車が坂道のカーヴを通り過ぎて、車輪の軋り呻く響きが一寸静まった途端に、そういう言葉がはっきりと聞えた。両腕を胸に組んで寒そうに――実際夕方から急に冷々としてきた晩だった――肩をすぼめていた佐伯昌作は、取留めのない夢想の中からふと眼を挙げて見ると、印半纏(しるしばんてん)を着た老人の日焼した顔が、髭を剃り込んだ※をつき出し加減にして、彼の横から斜上(ななめうえ)の方を指し示していた。其処には、車掌と運転手と二つ並んだ名札の一つに、木和田五重五郎という名前が読まれた。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢(とし)が突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸(やおやだぬき)って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄(うっす)らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面(しらふ)なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎輔の家へ行ってみた。けれど、玄関から勝手馴れた茶の間へ通るうちに、重苦しい憂鬱がすっかり心を鎖してくるのを、彼ははっきり感じた。
「やあ、どうしたい?」
彼の姿を見ると、片山禎輔はいつもの定り文句を機械的に口から出して、長火鉢に伏せていた少し酒気のある顔を挙げた。それから一寸眉根を曇らせた。昌作は黙って長火鉢の横手に坐ったが、禎輔が何か苛立っていること、先刻から苦しい思いに沈んでいたこと、宛も何かの中に落込んで出口を求めようとしているらしいこと、などを漠然と感じた。そしてそれが、不思議にもこの自分昌作に関係していることのような気がした。彼は次の言葉を待った。がその言葉は、彼の予期しない方面へ飛んでいった。
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。山上の湖水と……あまり山上でもないが、海岸に比ぶれば土地はよほど高いんだろう、まあ山上の湖水と云えば云えないこともないね。……ああ、そうそう、君は、山上の湖水なんかにどうして鰻(うなぎ)がいるか知ってるかい? 鰻って奴は、必ず海に卵を産んで、その卵から孵(かえ)ったのが、川を遡って内地……と云っちゃあ変だが、海に遠い山間の渓流へまでやって来るんだよ。それが出口も入口もない山上の湖水にまで、どうして来ると思う? 知らないだろう? そいつが面白いんだ。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢(とし)が突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸(やおやだぬき)って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄(うっす)らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面(しらふ)なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎輔の家へ行ってみた。けれど、玄関から勝手馴れた茶の間へ通るうちに、重苦しい憂鬱がすっかり心を鎖してくるのを、彼ははっきり感じた。
「やあ、どうしたい?」
彼の姿を見ると、片山禎輔はいつもの定り文句を機械的に口から出して、長火鉢に伏せていた少し酒気のある顔を挙げた。それから一寸眉根を曇らせた。昌作は黙って長火鉢の横手に坐ったが、禎輔が何か苛立っていること、先刻から苦しい思いに沈んでいたこと、宛も何かの中に落込んで出口を求めようとしているらしいこと、などを漠然と感じた。そしてそれが、不思議にもこの自分昌作に関係していることのような気がした。彼は次の言葉を待った。がその言葉は、彼の予期しない方面へ飛んでいった。
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。山上の湖水と……あまり山上でもないが、海岸に比ぶれば土地はよほど高いんだろう、まあ山上の湖水と云えば云えないこともないね。……ああ、そうそう、君は、山上の湖水なんかにどうして鰻(うなぎ)がいるか知ってるかい? 鰻って奴は、必ず海に卵を産んで、その卵から孵(かえ)ったのが、川を遡って内地……と云っちゃあ変だが、海に遠い山間の渓流へまでやって来るんだよ。それが出口も入口もない山上の湖水にまで、どうして来ると思う? 知らないだろう? そいつが面白いんだ。
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