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野道 - 幸田 露伴 ( こうだ ろはん )

  • 幸田露伴 ★ 豪華版 日本現代文学全集 幸田露伴集 ★ 講談社
  • ☆★岩波文庫  五重塔(幸田露伴)
  • (岩波文庫)五重塔 幸田露伴著 緑56
  • 『寶の蔵』明治25年7月2日刊學齢館版★幸田露伴★復刻版
  • 新潮文庫381幸田露伴『運命・論仙』昭和30初版帯
  • 現代日本文学全集8 幸田露伴集 改造社●昭和2年●レトロ●
  • 新選 名著複刻全集 近代文学館 「小説 尾花集」幸田露伴
  • 通販限定3枚組朗読CD:幸田露伴 五重塔 日下武史 新潮社
  • 幸田露伴 評釈 猿簑 リクエスト復刻・帯付き 岩波文庫
  • 幸田露伴 悦楽 大正4年発行
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 流鶯(りゅうおう)啼破(ていは)す一簾(いちれん)の春。書斎に籠(こも)っていても春は分明(ぶんみょう)に人の心の扉(とびら)を排(ひら)いて入込(はいりこ)むほどになった。
 郵便脚夫(ゆうびんきゃくふ)にも燕(つばめ)や蝶(ちょう)に春の来ると同じく春は来たのであろう。郵便という声も陽気に軽やかに、幾個(いくつ)かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻(ひるが)えして去った。
 無事平和春の日友人の音信(おとずれ)を受取るということは、感じのよい事の一(いつ)である。たとえば、その書簡(てがみ)の封(ふう)を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩(わずら)わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑(のどか)な日に友人手紙、それが心境に投げられた恵光(けいこう)で無いことは無い。
 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩(せんぱい)の某氏(ぼうし)の筆(ふで)であることは明らかであった。そして名宛(なあて)の左側の、親展とか侍曹(じそう)とか至急とか書くべきところに、閑事(かんじ)という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙(いそ)がしくなかったら披(ひら)いて読め、他(た)に心の惹(ひ)かれる事でもあったら後廻(あとまわ)しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉(うれ)しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読した、さも大至急とでも注記してあったものを受取ったように。
 書中のおもむきは、過日|絮談(じょだん)の折にお話したごとく某々氏|等(ら)と瓢酒(ひょうしゅ)野蔬(やそ)で春郊(しゅんこう)漫歩(まんぽ)の半日を楽(たのし)もうと好晴の日に出掛(でか)ける、貴居(ききょ)はすでに都外故その節(せつ)お尋(たず)ねしてご誘引(ゆういん)する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々(かか)、というまでであった。
 おもしろい自分はまだ知らないことだ。が、教えられていたから、妻に対(むか)って、オイ、二三枚でよいが杉(すぎ)の赤身(あかみ)の屋根板は無いか、と尋ねた。そんなものはございません、と云(い)ったが、少し考えてから、老婢(ろうひ)を近処(きんじょ)の知合(しりあい)の大工(だいく)さんのところへ遣(や)って、巧(うま)く祈(いの)り出して来た。滝割(たきわり)の片木(へぎ)で、杉の佳(よ)い香(か)が佳い色に含(ふく)まれていた。なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊(こたんじゃく)位の大きさにそれを断(き)って、そして有合せの味噌(みそ)をその杓子(しゃくし)の背で五|厘(りん)か七厘ほど、一|分(ぶ)とはならぬ厚さに均(なら)して塗(ぬ)りつけた。妻と婢とは黙(だま)って笑って見ていた。今度からは汝達(おまえたち)にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら、自分味噌の方を火に向けて片木(へぎ)を火鉢(ひばち)の上に翳(かざ)した。なるほどなるほど、味噌は巧(うま)く板に馴染(なじ)んでいるから剥落(はくらく)もせず、よい工合に少し焦(こ)げて、人の※意(さんい)を催(もよお)させる香気(こうき)を発する。同じようなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにしてちょっと紙に包(くる)んで、それでもう事は了(りょう)した。
 その翌日になった。照りはせぬけれども穏(おだ)やかな花ぐもりの好い暖い日であった。三先輩は打揃(うちそろ)って茅屋(ぼうおく)を訪(と)うてくれた。いずれも自分の親としてよい年輩の人々で、その中(うち)の一人は手製の東坡巾(とうばきん)といったようなものを冠(かぶ)って、鼠紬(ねずみつむぎ)の道行振(みちゆきぶり)を被(き)ているという打扮(いでたち)だから、誰(だれ)が見ても漢詩の一つも作る人である。他の二人も老人らしく似(に)つこらしい打扮だが、一人の濃(こ)い褐色(かっしょく)の土耳古帽子(トルコぼうし)に黒い絹(きぬ)の総糸(ふさいと)が長く垂(た)れているのはちょっと人目を側立(そばだ)たせたし、また他の一人の鍔無(つばな)しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹(ねずみかいき)のパッチで尻端折(しりはしょり)、薄(うす)いノメリの駒下駄穿(こまげたば)きという姿(なり)も、妙な洒落(しゃれ)からであって、後輩自分が枯草色(かれくさいろ)の半毛織の猟服(りょうふく)――その頃(ころ)銃猟(じゅうりょう)をしていたので――のポケットに肩(かた)から吊(つ)った二合瓶(にごうびん)を入れているのだけが、何だか野卑(やひ)のようで一群に掛離(かけはな)れ過ぎて見えた。
 庭口から直(ちょく)に縁側(えんがわ)の日当りに腰(こし)を卸(おろ)して五分ばかりの茶談の後、自分を促(うなが)して先輩等は立出でたのであった。自分の村人は自分に遇(あ)うと、興がる眼(め)をもって一行を見て笑いながら挨拶(あいさつ)した。自分は何となく少しテレた。けれども先輩達は長閑気(のんき)に元気に溌溂(はつらつ)と笑い興じて、田舎道(いなかみち)を市川の方へ行(ある)いた。
 菜(な)の花畠(はなばたけ)、麦(むぎ)の畠、そらまめの花、田境(たざかい)の榛(はん)の木を籠(こ)める遠霞(とおがすみ)、村の児(こ)の小鮒(こぶな)を逐廻(おいまわ)している溝川(みぞかわ)、竹籬(たけがき)、薮椿(やぶつばき)の落ちはららいでいる、小禽(ことり)のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘(してき)されて見ると、呉春(ごしゅん)の小品でも見る位には思えるちょっとした美がある。小さな稲荷(いなり)のよろけ鳥居が薮げやきのもじゃもじゃの傍(そば)に見えるのをほめる。ほめられて見ると、なるほどちょっとおもしろくその丹(に)ぬりの色の古ぼけ加減が思われる。土橋(どばし)から少し離(はな)れて馬頭観音(ばとうかんのん)が有り無しの陽炎(かげろう)の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草(れんげそう)の小束(こたば)がそこに抛(ほう)り出されている。いいという。なるはど悪くはない。今はじまったことでは無いが、自分先輩のいかにも先輩だけあるのに感服させられて、ハイなるほどそうですネ、ハイなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生は※然(てんぜん)として笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞(まぐそ)の道傍(みちばた)に盛上(もりあ)がっているのまで春の景色(けいしょく)だなぞと褒(ほ)めさせられるよ、と戯(たわむ)れたので一同(みんな)哄然(どっ)と笑声(しょうせい)を挙(あ)げた。
 東坡先生道行振の下から腰にしていた小さな瓢(ひさご)を取出した。一合少し位しか入らぬらしいが、いかにも上品な佳(よ)い瓢だった。そして底の縁(へり)に小孔(こあな)があって、それに細い組紐(くみひも)を通してある白い小玉盃(しょうぎょくはい)を取出して自ら楽しげに一盃(いっぱい)を仰(あお)いだ。そこは江戸川の西の土堤(どて)へ上(あが)り端(ばな)のところであった。堤(つつみ)の桜(さくら)わずか二三|株(しゅ)ほど眼界に入っていた。
 土耳古帽(トルコぼう)は堤畔(ていはん)の草に腰を下して休んだ。二合余も入りそうな瓢にスカリのかかっているのを傍に置き、袂(たもと)から白い巾(きれ)に包(くる)んだ赤楽(あからく)の馬上杯(ばじょうはい)を取出し、一度|拭(ぬぐ)ってから落ちついて独酌(どくしゃく)した。鼠股引(ねずみももひき)の先生は二ツ折にした手拭(てぬぐい)を草に布(し)いてその上へ腰を下して、銀の細箍(ほそたが)のかかっている杉の吸筒(すいづつ)の栓(せん)をさし直して、張紙(はりこ)の※猪口(ぬりちょく)の中は総金箔(ひたはく)になっているのに一盃ついで、一ト口|呑(の)んだままなおそれを手にして四方(あたり)を眺(なが)めている。自分は人々に傚(なら)って、堤腹に脚(あし)を出しながら、帰路(かえり)には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾(わ)が酒を注(つ)いで呑んだ。
 見ると東坡先生は瓢も玉盃も腰にして了(しま)って、懐中(ふところ)の紙入から弾機(ばね)の無い西洋ナイフのような総真鍮製(そうしんちゅうせい)の物を取出して、刃(は)を引出して真直(まっすぐ)にして少し戻(もど)すと手丈夫(てじょうぶ)な真鍮刀子(とうす)になった。それを手にして堤下(どてした)を少しうろついていたが、何か掘(ほ)っていると思うと、たちまちにして春の日に光る白い小さい球根を五つ六つ懐(ふところ)から出した半紙の上に載(の)せて戻(もど)って来た。ヤア、と云って皆は挨拶した。


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