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量的と質的と統計的と - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

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 古代ギリシア哲学者自然観照ならびに考察方法とその結果には往々現代物理学者化学者のそれと、少なくも範疇的(はんちゅうてき)には同様なものがあった。特にルクレチウスによって後世に伝えられたエピキュリアン派の所説中には、そういうものが数え切れないほどにあるようである。おそらくこれらの所説も、全部がロイキッポスやデモクリトスなどが創成したものではなくて、もっともっと古い昔からおぼろげな形で伝わり進化したものに根を引いているのであろうと想像される。しかしこれら哲学者の植え付けた種子が長い中世冬眠期の後に、急に復興して現代科学若葉を出し始めたのは、もちろん一般時代精神発現の一つの相には相違ない。しかし復興期の学者古代ギリシア学者との本質的な相違は、後者特にアテンの学派が「実験」を賤(いや)しい業(わざ)として手を触れなかったのに反して、前者がそういう偏見を脱却して、ほんとうの意味のエキスペリメントを始めた点にあると思われる。ガリレー、トリツェリ、ヴィヴィアニ、オットー・フォン・ゲーリケ、フック、ボイルなどといったような人がはなはだ粗末な今から見れば子供おもちゃのような道具を使って、それで生きた天然格闘して、しかして驚くべき重大な画期的実験を矢継ぎばやに行なったのがそもそもの始まりである。
 この歴史事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題前提として引用される。これは、この言葉意味解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解結果は往々不幸にして有害なる影響科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題ポピュラーでそうして伝統権威高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。
 量的というだけならば古代民族天文学測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記科学黎明期(れいめいき)におけるこれら実験の中のあるものはいくらか量的と言われうるものであったが、しかしこれらのすべては必ずしも今ごろ言うような量的ではなかったのである。この時代として最重要であったことは、「卵大」のガラス球についた「藁(わら)ぐらいの大きさの」管を水中に入れて「あたためると」ぶくぶく「泡(あわ)が出」、冷やすと水が管中に「上る」ことであった。また、銅球の中の水を強く吸い出すと急に高い音を立てて球がひしげたりした「こと」であった。あるいはむしろこういう「実験」をしてみようと思い立ったこと、それを実行した事であった。水が上ることが知られさえすればそれが何寸上ったかを計りたくなり、ポンプを引くのにひどく力がいればそれが何人力だか計りたくなり、そうしてそれを計る事ならばだれにでもできるのである。
 ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や電堆(でんたい)、ガルバニの細君の発見と言われる蛙(かえる)の実験いずれも質的なる画期的実験である。オェルステットが有名実験をした時の彼自身の考えは質的にさえ勘違いしていた。ルムフォード有名実験は「水が沸きさえもした」事に要点があった。ロバートマイヤーフラスコの水を打ち振った後にジョリーの室(へや)へ駆け込んで "Es ischt so !" と叫んだのは水が「あたたまった」ためで、それが何度点何々上ったためではなかったのである。ロェンチェン線の発見学界を驚かしたのはその波長が幾オングストロェームあったためではなく、そういうものが「在(あ)る」ということであった。ベクレル線も同様であった。シー・ティー・アール・ウィルソンの膨張箱の実験画期的であったゆえんはまず何よりも粒子実在を質的に実証した点であった。ラウエ、菊池(きくち)の実験といえども、まず第一着に本質的に何よりもだいじなことは「写真板の上にあのような点模様が現われる」ことであった。それが現われた上での量的討究の必要と結果の意義の大切なことはもとより言うまでもないことであるが、第一義たる質的発見一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学進歩には反古紙(ほごがみ)しか貢献しないが、質的に新しいものの把握(はあく)は量的に誤っていても科学の歩みに一大飛躍を与えるのである。ダイアモンドを掘り出せば加工はあとから出来るが、ガラスはみがいても宝石にはならないのである。
 現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。
 重大な発見の中でいわゆる Residual phenomena の研究から生まれるものがある。これらはもちろん非常に精密なる最高級の量的実験結果としてのみ得られるものである。たとえばあまりに有名なルヴェリエの海王星における、レーリーアルゴンにおけるごときものである。また近ごろの宇宙線(Cosmic ray)のごときものもそうである。これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値決定より先にそれらのものが「在(あ)る」ということを確立することである。もっともそのためには精密な計画と行き届いた考察なしには手を出せないことは言うまでもないことであるが、その際得る数字の最高精度は少なくも最初には必ずしも問題にならないのである。おもしろいことにはこの種の Residual effect はしばしばそれが「発見」されるよりずっと前から多くの人の二つの開いた目の前にちゃんと現在して目に触れていても、それが「在る」という質的事実を掘り出し、しっかり把握(はあく)するまでにはなかなか長い時を待たなければならないのである。これは畢竟(ひっきょう)量を見るに急なために質を見る目がくらむのであり、雑魚(ざこ)を数えて呑舟(どんしゅう)の魚を取りのがすのである。またおもしろいことには、物理学上における画期的理論でも、ほとんど皆その出発点は質的な「思いつき」である。近代相対性理論にしても、量子力学にしても、波動力学にしても基礎に横たわるものはほとんど哲学的、あるいは質的なる物理考察である。これなしにはいかなる数学利器をいかに駆使しても結局何物も得られないことは、むしろ初めからわかったことでなければならない。実際これらの理論の提出された当初の論文の形はある意味においてはほとんど質的のものである。それが量的に一部は確定され一部修正されるのにはやはりかなりに長い月日を要するのである。
 もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。
 これらはきわめて平凡なことである。それにかかわらずここでわざわざこういうことを事新しく述べ立てるのは、現時の世界物理学界において「すべてを量的に」という合い言葉が往々はなはだしく誤解されて行なわれるためにすべての質的なる研究が encourage される代わりに無批評条件に discourage せられ、また一方では量的に正しくしかし質的にはあまりに著しい価値のないようなものが過大に尊重されるような傾向が、いつでもどこでもというわけでないが、おりおりはところどころに見られはしないかと疑うからである。そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。


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