鎖骨 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )
子供が階段から落ちてけがをした。右の眉骨(びこつ)を打ったと見えて眼瞼(がんけん)がまんじゅうのようにふくれ上がった。それだけかと思っていたが吐きけのあるのが気になった。医者が来て見ると、どうも右肩の鎖骨が折れているらしいというので驚いて整形外科のT博士に診(み)てもらうとやはり鎖骨がみごとに折れている。しかしそのほうはたいした事ではない。それよりも右耳の後上部の頭蓋骨(ずがいこつ)をひどく打ったらしい形跡があって、そのほうがはなはだ大事だというので、はじめはたいした事でもないと思った事がらがだんだんに重大になって来た。T氏の話によると、頭を打ってから数時間の間当人はいっこう平気で、いつものように仕事をしていて、そうして突然意識を失って倒れることがよくあるそうである。
それは脳に徐々の出血があって、それがだんだんに蓄積して内圧を増す、それにつれて脈搏(みゃくはく)がはじめはだんだん昂進(こうしん)して百二十ほどに上がるが、それでも当人には自覚症状はない。それから脈搏がだんだん減少して行き、それが六十ぐらいに達したころに急に卒倒して人事不省に陥るそうである。それだから、頭を打ったと思ったらたとえ気分に変わりがないと思っても、絶対安静にして、そうして脈搏を数えなければならないそうである。そうして危険になったら脊柱(せきちゅう)に針を刺して水を取ったりいろいろのことをしなければならないそうである。
自分も小学生時代に学校の玄関のたたきの上で相撲(すもう)をとって床の上に仰向けに倒され、後頭部をひどく打ったことがある。それから急いで池の岸へ駆けて行って、頭へじゃぶじゃぶ水をかけたまでは覚えていたが、それからあとしばらくの間の記憶が全然空白になってしまった。そうして、今度再び自覚を回復したときは、学校の授業を受けおおせて、いつものように書物のふろしき包みと弁当をちゃんとさげて、通りなれた川ばた道を半ばぐらいまで歩いて来たときであった。そうして、いつものとおり、近所の友だちと話をしながら帰って来ていたのであったらしい。それにかかわらずその間数十分、あるいは一二時間の間の記憶が実にきれいに消えてしまっていたのである。それから宅(うち)へ帰っても、しかられるのがこわいから、この事は両親にもだれにも話さないでいた。考えてみると実に危険なことであった。
こういう場合に対する上記のT博士のいったような注意は、万人が万人日常よくよく心得ていなければならないはずであるのに、今度という今度までついぞ一度も聞いた記憶も読んだ覚えもない。学校でも教わったかもしれないが、教わらなかったような気がするし、また新聞雑誌などではとかく役にも立たない事や悪い事ばかり教わっても、この大切な事だけはどうも教わらなかったような気がする。教育が悪かったのか、自分の心がけが悪かったのか、両方が悪かったかである。こんなだいじなことは学校でも新聞でも三日に一ぺんずつ繰り返して教えていいかと思う。
天佑(てんゆう)と名医の技術によって幸いに子供は無事に回復した。骨の折れたのも完全に元のとおりになるのだそうである。
鎖骨というものはこういう場合に折れるためにできているのだそうである。これが、いわば安全弁のような役目をして気持ちよく折れてくれるので、その身代わりのおかげで肋骨(ろっこつ)その他のもっとだいじなものが救われるという話である。
地震の時にこわれないためにいわゆる耐震家屋というものが学者の研究の結果として設計されている。筋かい方杖(ほうづえ)等いろいろの施工によって家を堅固な上にも堅固にする。こうして家が丈夫になると大地震でこわれる代わりに家全体が土台の上で横すべりをする。それをさせないとやはり柱が折れたりする恐れがあるらしい。それで自分の素人(しろうと)考えでは、いっその事、どこか「家屋の鎖骨」を設計施工しておいて、大地震がくれば必ずそこが折れるようにしておく。しかしそのかわり他のだいじな致命的な部分はそのおかげで助かるというようにすることはできないものかと思う。こういう考えは以前からもっていた。時々その道の学者たちに話してみたこともあるが、だれもいっこう相手になってくれない。
しかし今度自分の子供の災難が動機になってもう一ぺんこういう考えを練り直してみたくなった。どうも人間のこしらえたものはとかく欠点だらけであるが、天然のものは何を見ても実に巧妙にできている。人間の五体でもけがをするとそこが痛む。動くとひどく痛むからしかたなくじっとしている。じっとしていれば直るものはひとりで直るようにできているものらしい。もし、これがちっとも痛くなかったら平気で動き回る。動き回れば傷も骨折もなかなか直るときはないであろう。
腸胃が悪いと腹が痛かったり胸が悪かったりするから食物を食う気になれない。もしもなんの苦痛もなかったら平気でなんでも食う。食えばいよいよ病気が重くなって行くに相違ない。風邪(かぜ)をひいて熱が高くなると苦しくて仕事ができなくなる。寝たくなる。寝れば直るが無理すると肺炎になる。
これらの平凡すぎるほど平凡な事実の中に、実に驚嘆すべき造化の妙機のあることに今まで少しも心づかないでいたのが、今度の子供の災難に会って始めて少しばかりわかりかけて来たような気がする。
犬や猫(ねこ)はこれをちゃんと心得ているようである。そうしてたいていのけがや病は自然の力で直してしまう。
それは脳に徐々の出血があって、それがだんだんに蓄積して内圧を増す、それにつれて脈搏(みゃくはく)がはじめはだんだん昂進(こうしん)して百二十ほどに上がるが、それでも当人には自覚症状はない。それから脈搏がだんだん減少して行き、それが六十ぐらいに達したころに急に卒倒して人事不省に陥るそうである。それだから、頭を打ったと思ったらたとえ気分に変わりがないと思っても、絶対安静にして、そうして脈搏を数えなければならないそうである。そうして危険になったら脊柱(せきちゅう)に針を刺して水を取ったりいろいろのことをしなければならないそうである。
自分も小学生時代に学校の玄関のたたきの上で相撲(すもう)をとって床の上に仰向けに倒され、後頭部をひどく打ったことがある。それから急いで池の岸へ駆けて行って、頭へじゃぶじゃぶ水をかけたまでは覚えていたが、それからあとしばらくの間の記憶が全然空白になってしまった。そうして、今度再び自覚を回復したときは、学校の授業を受けおおせて、いつものように書物のふろしき包みと弁当をちゃんとさげて、通りなれた川ばた道を半ばぐらいまで歩いて来たときであった。そうして、いつものとおり、近所の友だちと話をしながら帰って来ていたのであったらしい。それにかかわらずその間数十分、あるいは一二時間の間の記憶が実にきれいに消えてしまっていたのである。それから宅(うち)へ帰っても、しかられるのがこわいから、この事は両親にもだれにも話さないでいた。考えてみると実に危険なことであった。
こういう場合に対する上記のT博士のいったような注意は、万人が万人日常よくよく心得ていなければならないはずであるのに、今度という今度までついぞ一度も聞いた記憶も読んだ覚えもない。学校でも教わったかもしれないが、教わらなかったような気がするし、また新聞雑誌などではとかく役にも立たない事や悪い事ばかり教わっても、この大切な事だけはどうも教わらなかったような気がする。教育が悪かったのか、自分の心がけが悪かったのか、両方が悪かったかである。こんなだいじなことは学校でも新聞でも三日に一ぺんずつ繰り返して教えていいかと思う。
天佑(てんゆう)と名医の技術によって幸いに子供は無事に回復した。骨の折れたのも完全に元のとおりになるのだそうである。
鎖骨というものはこういう場合に折れるためにできているのだそうである。これが、いわば安全弁のような役目をして気持ちよく折れてくれるので、その身代わりのおかげで肋骨(ろっこつ)その他のもっとだいじなものが救われるという話である。
地震の時にこわれないためにいわゆる耐震家屋というものが学者の研究の結果として設計されている。筋かい方杖(ほうづえ)等いろいろの施工によって家を堅固な上にも堅固にする。こうして家が丈夫になると大地震でこわれる代わりに家全体が土台の上で横すべりをする。それをさせないとやはり柱が折れたりする恐れがあるらしい。それで自分の素人(しろうと)考えでは、いっその事、どこか「家屋の鎖骨」を設計施工しておいて、大地震がくれば必ずそこが折れるようにしておく。しかしそのかわり他のだいじな致命的な部分はそのおかげで助かるというようにすることはできないものかと思う。こういう考えは以前からもっていた。時々その道の学者たちに話してみたこともあるが、だれもいっこう相手になってくれない。
しかし今度自分の子供の災難が動機になってもう一ぺんこういう考えを練り直してみたくなった。どうも人間のこしらえたものはとかく欠点だらけであるが、天然のものは何を見ても実に巧妙にできている。人間の五体でもけがをするとそこが痛む。動くとひどく痛むからしかたなくじっとしている。じっとしていれば直るものはひとりで直るようにできているものらしい。もし、これがちっとも痛くなかったら平気で動き回る。動き回れば傷も骨折もなかなか直るときはないであろう。
腸胃が悪いと腹が痛かったり胸が悪かったりするから食物を食う気になれない。もしもなんの苦痛もなかったら平気でなんでも食う。食えばいよいよ病気が重くなって行くに相違ない。風邪(かぜ)をひいて熱が高くなると苦しくて仕事ができなくなる。寝たくなる。寝れば直るが無理すると肺炎になる。
これらの平凡すぎるほど平凡な事実の中に、実に驚嘆すべき造化の妙機のあることに今まで少しも心づかないでいたのが、今度の子供の災難に会って始めて少しばかりわかりかけて来たような気がする。
犬や猫(ねこ)はこれをちゃんと心得ているようである。そうしてたいていのけがや病は自然の力で直してしまう。
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鎖骨 (さこつ) のリンク元
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- [[biglobe]] 鎖骨 役目
- [[biglobe]] 鎖骨
- [[biglobe]] 子供 鎖骨骨折 運動
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- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%8d%bd%8d%9c+%8e%9b%93c%93%d0%95F&sid=000
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=3&key=%82%d1%82%c4%82%a2%82%b1%82%c2%82%c1%82%c4%82%c7%82%b1&fid=2
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=6&key=%83N%83%8a%e4r%82%df&fid=5
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「鎖骨-寺田 寅彦」の関連ページ
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20100118寺田寅彦 どんぐり 子猫 の言葉吻合(ふんごう)とは、外科手術における手技の一つで、血管と血管や神経と神経をつないだりすること。また、複数 -
リンク - 本と猫 - 本と猫
県春日部市の伝統工芸、張子人形のお店。縁起物や節句人形、絵画など自由奔放な創作活動を展開されています。楽しい絵付け教室も開催されています。★高知県立文学館「寺田寅彦記念室」・「宮尾文学の世界」他、高知 -
問題ページ18 - pmmo@wiki - pmmo@wiki
を指していないものはどれ? →烏賊燃料として用いられる石炭は、何が変化して出来た物質? →植物天災は忘れたころにやってくる →寺田寅彦1891年に -
地図1/石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
36/17/25.8,136/38/43.032 -
胸の部位 - 柔道整復師のタマゴ - 柔道整復師のタマゴ
の顎二腹筋前腹と舌骨の間にできる三角,16.筋三角:胸鎖乳突筋前縁,肩甲舌骨筋と正中線の間の三角,17.胸鎖乳突筋部,18.小鎖骨上窩:胸鎖乳突筋の鎖骨頭と胸骨頭の間のくぼみ,19.外側頚三角(後頚三角):胸鎖乳突筋後縁,僧帽筋前縁,鎖骨 -
頚の部位 - 柔道整復師のタマゴ - 柔道整復師のタマゴ
の顎二腹筋前腹と舌骨の間にできる三角,16.筋三角:胸鎖乳突筋前縁,肩甲舌骨筋と正中線の間の三角,17.胸鎖乳突筋部,18.小鎖骨上窩:胸鎖乳突筋の鎖骨頭と胸骨頭の間のくぼみ,19.外側頚三角(後頚三角):胸鎖乳突筋後縁,僧帽筋前縁,鎖骨 -
Only One - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:奥井雅美作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Key:寺田志保Bass:山本直哉Strings:小池弘之グループSynth:栗山善親収録Battle No Limit!JAM -
石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
寺田川ダムをお気に入りに追加寺田川ダムのリンク2009年10月15日(木)水カメ緑クマDが行く~石川・富山編ウィキペディア寺田川ダム寺田川ダムの報道newsプラグインエラー「寺田川ダム」の検索結果を取得できませんでした寺田川ダムの構造分析寺田 -
自民/た行/寺田稔 - 永田町二丁目情報部 - 永田町二丁目情報部
寺田稔をお気に入りに追加くちこみリンクMon, 19 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月19日(月)Mon, 12 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月12日(祝・体育 -
寺田有希 - アイドルプロフィール - アイドルプロフィール
寺田有希生年月日:1989年04月21日(20歳)身長:154体重:40B:83W:58H:85カップ:備考:2004年、第29回ホリプロスカウトキャラバン大阪地区グランプリ決勝進出。2005年

