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鐘ヶ淵 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )

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     一  I君は語る。  僕の友人大原というのがいる。現今は北海道の方へ行って、さかんに罐詰事業をやっているが、お父(とっ)さんの代までは、旧幕臣で、当主の名は右之助(うのすけ)ということになっていた。遠いむかしは右馬之助といったのだそうであるが、何かの事情で馬の字を省(はぶ)いて、単に右之助ということになって、代々の当主は右之助と呼ばれていた。ところで、今から六代前の大原右之助という人は徳川八代将軍吉宗に仕えていたが、その時にこういう一つの出来事があったといって、家の記録書き残されている。由来、諸家の系図とか記録とか伝説とかいうものは、かなり疑わしいものが多いから、これも確かにほんとうかどうかは受け合われないが、ともかくも大原の家では真実記録として子々孫々に伝えている。それを当代の大原君がかつて話してくれたので、僕は今その受け売りをするわけであるから、多少の聞き違いがあるかも知れない。その話は大体こうである。

 享保(きょうほう)十一年に八代将軍吉宗は小金ヶ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍隅田川|御成(おなり)があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤(どて)を鷹狩場所と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍綱吉殺生禁断の時代に取毀(とりこわ)されて、その後は木母寺(もくぼじ)または弘福寺将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。
 こんな考証は僕の畑にないことであるから、まずいい加減にしておいて、手っ取り早く本文(ほんもん)にとりかかると、このときの御成は四月の末というのであるから鷹狩ではない。木母寺のすこし先に御前畑というものがあって、そこに将軍家台所用の野菜西瓜真桑瓜のたぐいを作っている。またその附近に広い芝生があって、桜、桃、赤松、柳、あやめ、つつじ、さくら草のたぐいをたくさんに植えさせて、将軍がときどき遊覧に来ることになっている。このときの御成も単に遊覧のためで、隅田のながれを前にして、晩春初夏風景を賞(め)でるだけのことであったらしい。
 旧暦四月末といえば、晩春より初夏に近い。きょうは朝からうららかに晴れ渡って、川上筑波もあざやかに見える。芝生の植え込みの間にも御茶屋というものが出来ているが、それは大きい建物ではないので、そこに休息しているのは将軍と少数の近習だけで、ほかのお供の者はみな木母寺の方に控えている。大原右之助は二十二歳で御徒士(おかち)組の一人としてきょうのお供に加わって来ていた。かれは午飯(ひるめし)の弁当を食ってしまって、二、三人の同輩と梅若塚のあたりを散歩していると、近習頭(きんじゅがしら)の山下三右衛門が組頭同道で彼をさがしに来た。
大原御用だ。すぐに支度をしてくれ。」と、組頭は言った。
「は。」と、大原は形をあらためて答えた。「なんの御用でござります。」
「貴公。水練(すいれん)は達者かな。」と、山下は念を押すように訊(き)いた。
「いささか心得がござります。」
 口ではいささかと言っているが、水練にかけては大原右之助、実は大いなる自信があった。大原にかぎらず、この時代御徒士の者はみな水練に達していたということである。それは将軍吉宗が職をついで間もなく、隅田川のほとりへ狩に出た時、将軍の手から放した鷹が一羽の鴨をつかんだが、その鴨があまりに大きかったために、鷹は掴んだままで水のなかに落ちてしまった。お供の者もあれあれと立ち騒いだが、この大川へ飛び込んでその鷹を救いあげようとする者がない。一同いたずらに手に汗を握っているうちに、御徒士の一人坂入半七というのが野懸けの装束のままで飛び込んで、やがてその鷹と鴨とを臂(ひじ)にして泳ぎ戻って来たので、将軍はことのほかに賞美された。その帰り路に、とある民家の前にたくさんの米俵が積んであるのを将軍がみて、あの米はなんの為にするのであるか。わが家の食米にするのか、他へ納めるのかと訊いたので、おそばの者がその民家に聞きただして、これは自家の食米ではない、代官伊奈半左衛門に上納するものであると答えると、しからばそれをかの鷹を据(す)え上げたる者に取らせろと将軍は言った。その米は四百俵あったという。こうして、坂入半七は意外の面目をほどこした上に、意外の恩賞にあずかったので、その以来、御徒士組の者は競って水練をはげむようになった。
 あらためて言うまでもなく、八代将軍吉宗紀州から入って将軍職を継いだ人で、本国紀州にあって、若いときから常に海上を泳いでいたので、すこぶる水練に達している。江戸へ出て来てから自分に扈従(こじゅう)する御徒士の侍どもを見るに、どうもあまり水練の心得はないらしい。水練武術の一科目ともいうべきものであるのに、その練習を怠るのをよろしくないと思っていたので、この機会において吉宗はかの坂入半七を特に激賞し、あわせて他を激励したのであると伝えられている。いずれにしても、それが動機となって、御徒士の面々はみな油断なく水練研究をすることとなったのみならず、吉宗はさらにそれを奨励するために、毎年六月浅草駒形堂附近の隅田川において御徒士組の水練を行なわせることとした。
 夏季水練幕府年中行事であるが、元禄以後ほとんど中絶のすがたとなっていたのを、吉宗はそれを再興して、年々かならず励行することに定めたので、いやしくも水練の心得がなければ御徒士の役は勤められないことにもなった。したがってその道にかけては皆相当のおぼえがある中でも、大原右之助は指折りの一人であった。
 大原と肩をならべる水練の達者は、三上治太郎福井文吾の二人で、去年の夏の水練御上覧の節には、大原隅田川のまん中で立ち泳ぎをしながら短冊に歌をかいた。三上はおなじく立ち泳ぎをしながら西瓜真桑瓜の皮をむいた。福井家重代(いえじゅうだい)の大鎧をきて、兜をかぶって太刀を佩(は)いて泳いだ。それ程の者であるから、近習頭の山下もかれが水練の腕前を知らないわけではなかったが、役目の表として、一応は念を押したのである。


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