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鑢屑 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • N100601 萬華鏡☆寺田寅彦著☆岩波書店刊
  • 柿の種★寺田寅彦★岩波文庫
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  • 寺田寅彦随筆集/岩波文庫/全5冊組/函■昭和48年
  • 【望星2008年11月号】寺田寅彦に会いたい!
  • 【ラク】FZ0501026●古書/岩波書店/寺田寅彦全集 文学編 第15巻
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 4』岡本かの子 寺田寅彦★1円
  • 【ちくま日本文学034】寺田寅彦 1878-1935
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         一  ある忙しい男の話である。  朝は暗いうちに家を出て、夜は日が暮れてしまってから帰って来る。それで自分の宅(うち)の便所へはいるのはほとんど夜のうちにきまっている。
 たまたま祭日などに昼間宅に居ることがある。そうして便所へはいろうとする時に、そこの開き戸を明ける前に、柱に取付けてある便所電燈スウィッチをひねる。
 それが冬だと何事もないが、夏だと白日の下に電燈の点(とも)った便所の戸をあけて自分で驚くのである。
 習慣が行為の目的を忘れさせるという事の一例になる。

         二

 雨上がり錦町河岸(にしきちょうがし)を通った。電車線路のすぐ脇の泥濘(ぬかるみ)の上に、何かしら青い粉のようなものがこぼれている。よく見ると、たぶん、ついそこの荷揚場から揚げる時にこぼれたものだろう、一握りばかりの豌豆(えんどう)がこぼれている。それが適当湿度温度に会って発芽しているのであった。
 植物の発育は過去現在環境決定される。しかし未来に対する考慮は何の影響ももたない。もしそれがあるのだったら、今にも人の下駄の歯に踏みにじられるようなこんな道路の上に、このような美しい緑の芽を出すはずはない。

         三

 ○○町の停留場新聞売りの子供が立っていた。学校帽をかぶって、汚れた袖無しを着ていたが、はいている靴を見ると、それはなかなか立派なものだった。踵(かかと)にゴムの着いた、編上げの恰好のいい美事なのであった。少なくも私の知っている知識階級家庭子供七十プロセント以上はこれよりもずっと悪いか、あるいは古ぼけた靴をはいているような気がする。

         四

 馬が日射病にかかって倒れる、それを無理に引ずり起して頭と腹と尻尾(しっぽ)を麻縄で高く吊るし上げて、水を呑ませたり、背中から水をぶっかけたりしている。人が大勢たかってそれを見物している。こういう光景を何遍となく街頭で見かけた。
 この場合において馬方(うまかた)は資本家であり、馬は労働者である。ただ人間労働者とちがうのは、口が利けない事である。プロパガンダ出来ない事である。
 馬と人間と一つにはならないという人があるだろう。
 そんな理窟がどこから出て来るかを聞きたい。

         五

 日本中の大工業家が寄り合って飯を食ったり相談をする建物がある。その建物の正面の屋根の上に一組の彫像のようなものが立っている。中央何かしら盾(たて)のようなものがあってその両脇に男と女の立像がある。
 これはたぶん商工業の繁昌を象徴する、例えば西洋恵比須大黒(えびすだいこく)とでも云ったような神様の像だろうと想像していたが、近頃ある人から聞くと、あれは男女労働者を象(かたど)ったものだそうである。これを聞いた時に私は微笑を禁ずる事が出来なかった。

         六

 田舎道の道端に、牛が一匹つながれていた。そこへ十歳前後くらいの女の児が二、三人つれだって通りかかった。都会小学校へ通っての帰途らしい。突然女の児の一人が「牛は、わりに横眼がうまいわねえ」と云った。
 近頃次第に露骨になりつつある都会のある階級の女のコケトリーについて、人から色々の話を聞かされていた私は、この無心の子供のこの非凡な註説(リマーク)を無意味には聞き逃す事が出来なかった。

         七

 知名の人の葬式に出た。
 荘厳な祭式の後に、色々弔詞(ちょうし)が読み上げられた。ある人は朗々と大きな声で面白いような抑揚をつけて読んだが、六(むつ)かしい漢文だから意味はよく分らなかった。またある人は口の中でぼしゃぼしゃと、誰にも聞こえないように読んでしまった。後にはただ弔詞を包紙に包んだままで柩(ひつぎ)の前に差し出すのも沢山にあった。
 いったい弔詞というものは、あれは誰にアドレッスされたものだろう。死んだ人を目当てにしたものか、遺族ないしは会葬者に対して読まれるものだろうか、それとも死者呼びかける形式で会葬者に話しかけるものだろうか。あるいは読む人の心持だけのものであるか。
 いずれにしてもあれはもう少し何とかならないものだろうか。
 むしろ故人と親しかった二、三の人が、故人の色々な方面に関する略歴や逸事のようなものを、誰にも分る普通言葉で話して、そうして故人の追憶を新たに喚(よ)び起すようにした方がもう少し意味がありはしないか。

         八

 道路の真中に煉瓦(れんが)の欠けらが転(ころ)がっていた。そこへ重い荷物を積んだ自動荷車が来かかって、その一つの車輪をこの煉瓦に乗り上げた。煉瓦はちょうど落雁(らくがん)か何か出来てでもいるようにぼろぼろに砕けてしまった。
 この瞬間に、私の頭の中には「煉瓦が砕けるだろうか、砕けないだろうか」という疑問と「砕けるだろう」という答とが、ほとんど同時に電光のように閃(ひらめ)いた。


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