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長篇小説私見 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )

  • ◇夜明け前 第二部 島崎藤村著 藤村長篇小説叢書6 初版本
  • 隆慶一郎「捨て童子・松平忠輝 全3巻」帯付/最後の長篇小説
  • j9037 舟橋聖一/講談社版長篇小説名作全集14/昭25【メール便】
  • aiy☆昭和21年☆旅愁/第三篇/横光利一/長篇小説/改造社名作選
  • 加賀乙彦 日本の長篇小説 初版・評論
  • 「日本の長篇小説」加賀乙彦、筑摩書房
  • 1000円均一;現代長篇小説全集;第80巻;地の果てまで;古書
  • パプリカ 筒井康隆 精神の深遠に迫る禁断の長篇小説 送料340円
  • No.177A あ・うん …市井の家族の情景を鮮やかに描いた長篇小説
  • No.3296 朱夏 上・下(2册)…宮尾文学の最高峰。 自伝的長篇小説
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 文学の中に吾々は、種々の意味で心惹かるる人物を沢山持っている。友人や知人や恋人、敵や味方、崇高な者や惨めな者、自分の半身と思わるる者や不可解な者……。ハムレットやドン・キホーテなどの典型的なものから始めて、咄嗟に頭に浮ぶものだけでも、枚挙に遑がない。文学に親しんでる者にとっては、それらの人物の数や性格多種多様さに於て、文学歴史以上である。而も、史上の実在人物が、時と場所との限定によって、吾々と縁遠い存在であるのに反して、文学上の人物は、同感的に或は反感的に吾々の心情に直接に触れることによって、吾々の身辺に近い存在である。吾々にとって、実在人物架空的になり、架空的な人物実在性を持ってくる、この顛倒は、歴史文学との本質的な一面を説明するものであろう。
 或る時代の或る種類の文学をとりあげて、それが尋常意味で吾々に生々と感ぜらるる所以は、右のような人物によることが多い。日本歌舞伎芝居への関心から吾々が容易に脱せられないのは、その中に親しい人物数多く吾々が持ってることが、最も大きな原因ではあるまいか。演劇上の様式のことは茲では問題でない。歌舞伎中の種々の人物が未知の他人となり終る時、即ちそれらの人物が死んでしまう時、歌舞伎生命は薄らぐだろう。
 吾々が種々の関心を以て、実在人物に対するような気持で、呼びかけ得る人物、そういう人物を持つことの少い文学は、淋しい。日本近代文学も淋しいものの一つである。人生の見方に於て、心理の取扱方に於て、社会的見解に於て、また芸術表現方法に於て、世界的水準にまで眼覚めた日本近代文学のうちに、果して幾人、吾々が親しく呼びかけ得る人物があるだろうか。多くのすぐれた作品名前を挙げることは、即座にでも出来る。然し、関心のもてる人物名前を挙げてみよと云われる時、即座には固より、作品の頁をめくっても、答えは容易ではあるまい。これは人物名前に対する吾々の健忘性の故ばかりではない。最近の例をとって見ても、「春琴抄」という作品の名は誰にも親しくなっていても、春琴という名前は既に縁遠く響くし、彼女の相手の男の名前は知る人さえも少い。「無法人」についても、「紋章」についても、同様のことが云える。文学に関する文章の中で、作品の名を挙げずに作中人物の名前がいきなり書かれたならば、多くの人はまごつくだろう。浪子、貫一、三四郎机竜之助丹下左膳……一体、真摯な文学は、そして作者が血肉を注ぎこんだ人物は、どこへ行ってしまったか。日本の名高い文学者について、その人が書き生かした人物が、果して幾人世人の頭に残っているだろうか。更に悲しいことには、果して幾人の人物名前が、作者自身の頭の中にさえ残っているであろうか。
 こういう現状であるからこそ、殊に、長篇作品要望されるのである。人物書き生かして実在存在の域にまで高めることについて、短篇は到底長篇に及ばないのは明かである。が、このことに関して一言しておきたいことが一つある。
 短篇では、分量の関係上、或る人物なり或る事件なりを全幅的に描くことは困難であって、多くは、人物事件断面図となる。云い換えれば、人生の断片となる。尤もこの人生の断片は、すぐれた作にあっては、全体を予想せしむる断片であって、書かれた部分以外に、その額縁以外に、広く進展する可能性を含有している。けれども、そうした断片を取扱う場合、特珠の場合を除いて大抵は、その文学的操作法に一種の限定が生ずる。そしてこの限定は、作者と対象とを分離させる作用をなしがちである。
 事実に即して云おう。短篇批評に於ては、作者態度とか心境とかいうことが、作品内容と切離して見らるることが多い。ところでこの作者態度とか心境とかいうものは、云わば人生に対する作者の身構えであって、それは作品の基調となるものではあるが、作品の中に直接盛りこまれるものではない。だからこの問題に関する限り、作者はその作品内容について、常にこう云うことが出来る、「あれは、或る人物の或る場合のことを書いたのだ。」
 こうして作者一人傲然と構える時、そこに置きざりにされた「或る人物の或る場合」はどうなるか。それは一つの特殊の相ではある。或る人物の或る場合であることに変りはない。だが、この「或る」というのが曲者だ。人は誰でも人間たる限り、自分のうちに無数の動向性を有し、偶然への無数の逢着性を有している。それ故、「或る」という特殊は、可能という見地からすれば、直ちに普遍となる。或る人物の或る場合は、誰でもいつ出逢うか分らない場合となる。
 作者はその態度とか心境とかいう立場作品の後方に控え作品は或る人物の或る場合という口実の下に普遍性を帯び、そしてただ芸術技法のみが問題となってくる時、作品中の人物が独自の存在を失ってくるのは、当然の結果であろう。之に反して長篇は、普通人物普通場合を取扱っても、それが比較的全幅的に書き生かされる時、それ自体の限定によって、より多く特殊的となる。そしてその人物は、独自の存在を得る。
 固より、人物を生かすこと、人物に独自の存在を得させることが、文学唯一の務めではない。現代文学は、実在人物の描写よりも、自己表現ということが、より重要な事柄となっている。広汎な意味での自己を、もしくは自己のうちにある何かを、具象的に表現するということが、最も重要問題となっている。然しながら、具象的に表現されたものそのものは、独自の存在を持つべきだということが、具象的表現の内在的目的であって、表現されたものそのものは、作品の中では、結局一個の人物ということに帰着する。
 作者によって表現され独自の存在を与えられたかかる人物に対してこそ、実は、最も根本的な無慈悲解剖批評がなされるのである。例えば、アリサやミシェルやラフカディオなどは、アンドレ・ジィドの精神一部代表するものではあっても、各自に独立した一の人物として生きているのであって、これに対して吾々は忌憚なき批評をなすことが出来る


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