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間諜座事件 - 海野 十三 ( うんの じゅうざ )

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     1  これは或るスパイ事件だ。  ところで、これから述べてゆく其(そ)の物語の中には、日本人名前ばかりが、ズラズラと出てくるのだが、読者諸君は、それ等を悉(ことごと)く真(しん)の日本人だと早合点(はやがてん)されてはいけない。実はその間諜(かんちょう)一味は××人なのである。本来ならば「丸木花作(まるきはなさく)事(こと)本名(ほんみょう)張学霖(ちょうがくりん)は……」といった風に書くのが本当なのであるが、それを一々書くのが、煩(わずらわ)しい程、××人が出てくることであるから、一つ思切(おもいき)って、味噌も糞も悉く日本人名前の方だけを書くことにした。
 どうかお読みになっている裡(うち)に、錯覚(さっかく)を起さないようにして戴(いただ)きたいと、お願いして置く。さて――


     2


 霧の深い夕方だった。
 秘密警備隊員の笹枝弦吾(ささえだげんご)は、定(さだ)められた時刻が来たので、同志の帆立介次(ほたてかいじ)と肩を並(なら)べてS公園の脇(わき)をブラリブラリと歩き始めていた。もう冬と名のつく月に入ったのだったが、今夜はそう寒くもなかった。しかしこう霧が降りていては、連絡をとるのに稍(やや)困難を覚(おぼ)えた。その連絡員というのがうまく自分達を探しあてて呉(く)れればいいが……。
「ウーイ、こらさのさッ――てんだ」
 向うから酔払(よっぱら)いの声が聞える。顔も姿もまだ見えないが……。
 弦吾は肘(ひじ)でチョイと同志帆立の脇腹(わきばら)を突(つつ)いた。
 ぬからず帆立が、
「ピ、ピーイ、ピッ……」
 とヴァレンシアメロディー口笛で吹き始める。
 ヒョロヒョロと、向うから人影が現れた。
 弦吾はツと帽子を被(かぶ)り直(なお)した。
 どおーン。
 酔払いが突き当った。
「ヤイ、ヤイ、ヤイッ」酔払いが呶鳴(どな)った。
「つッ突(つ)き当(あた)りやがって、挨拶(あいさつ)をしねえとは何でえ。こッこの棒くい野郎奴(やろうめ)」
「……」
「だッ黙ってるな。いよいよもう、勘弁(かんべん)ならねえ、こッ此(こ)の野郎ッ」
 どおーンと突き当ったのはいいが拳固(げんこ)を振(ふ)り下(お)ろすところを、ヒラリと転(か)わされて、
「ぎゃーッ」
 と叫ぶと、酔漢(すいかん)は舗道(ほどう)の上に、長くのめった。
 弦吾と同志帆立とは、酔漢の頭を飛び越えると足早(あしばや)に猿江(さるえ)の交叉点(こうさてん)の方へ逃げた。
 細い横丁を二三度あちこちへ折れて、飛びこんだのはアパートメントとは名ばかりの安宿(やすやど)の、その奥まった一室――彼等の秘密の隠(かく)れ家(が)!
「どうだった?」入口の扉(ドア)にガチャリと鍵をかけると、帆立が云った。
「ウン、これだ」
 弦吾は掌(てのひら)を開くと、小形のたばこやマッチを示した。酔払いから素早く手渡された秘密マッチ箱だった。小指の尖(さき)で、中身をポンと落しメリメリと外箱(そとばこ)を壊(こわ)して裏をひっくりかえすと、弦吾はポケットから薬壜(くすりびん)を出し、真黄(まっき)な液体をポトリポトリとその上にたらした。果然(かぜん)、見る見る裡(うち)に蟻の匍(は)っているような小文字(こもじ)が、べた一面に浮び出た。
 本部からの指令だった!


     3


 二人は、マッチ箱の裏に書かれた指令文を読み終ると、合(あ)わせていた額(ひたい)を離して、思わず互(たがい)の顔を見合わせた。二人は一語(いちご)も発しない。余程(よほど)重大な指令と見える。
 その指令というのは――

(指令本第一九九七八号)
(一)QX30トQZ19トハ、即刻(そっこく)間諜座(かんちょうざ)ニ赴(おもむ)キ、「レビュー・ガール」の内(うち)ヨリ左眼ニ義眼ヲ入レタル少女ヲ探シ出シ、彼女芸名ヲ取調ベ、QZ19ハ直(ただ)チニR区裏ノ公衆電話|傍(そば)ニ急行シテ黄色外套(がいとう)ヲ着(ちゃく)セル二人ノ同志ニ之(これ)ヲ報告セヨ。又QX30ハ間諜座内ニ其儘(そのまま)止リテ、打出(うちだ)シト共(とも)ニ群衆ニ紛(まぎ)レテ脱出セヨ。
(二)右ノ報告ヲ本日午後十時マデニ報告シ得ザルトキハ、在京(ざいきょう)同志ハ悉(ことごと)ク明朝(みょうちょう)ヲ待タズシテ鏖殺(おうさつ)セラルルコトヲ銘記(めいき)セヨ。

「死線(しせん)は近づいたぞ」
「かねて探していた敵の副司令が判ったというわけだな」
「ウン、義眼を入れたレビュー・ガールとは、うまく化けやがった」
「だが間諜座へ入ることは、地獄の門をくぐるのと同じことだ。固くなったり、驚いたりして発見されまいぞ」
「あのなかは敵の密偵(みってい)で一杯なんだろうな」
「毎夜、観客の中に百人近くの密偵が交(まじ)っているということだ。そして何か秘密方法で、舞台上(ぶたいうえ)の首領通信をしているそうだ」
首領よりか副司令のあの小娘(こむすめ)が恐ろしいのか」
「そうだ。あの小娘は悪魔の生れ代りだ」
「するとあの副司令を今夜のうちに、こっちの手でやッつける手筈(てはず)になったんだな」
「ウン。――どうしてやッつけるかは知らないが、副司令のやつ、義眼を入れてレビュー・ガールに化けているてぇことを、嗅(か)ぎつけられたが運の尽(つ)きだよ。おお、もう五時半だ。あといくらも時間が無いぞ。さア出発だ」
 弦吾は腰をあげた。
「おっと待ちな、冷(つめた)いながら酒がある。別れの盃(さかずき)と行こう」
 同志帆立は、押入の隅から壜詰を取出した。汚れたコップに、黄色い酒がなみなみとつがれた。
 カチャリ、カチャリ。
地獄で会おうぜ」
「世話になったな」


     4


 部屋を出ようとするときだった。
 ブ、ブ、ブブー。
 卓子(テーブル)の裏に取付けたブザーが鳴った。
「ほい。


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