雁坂越 - 幸田 露伴 ( こうだ ろはん )
その一
ここは甲州(こうしゅう)の笛吹川(ふえふきがわ)の上流、東山梨(ひがしやまなし)の釜和原(かまわばら)という村で、戸数(こすう)もいくらも無い淋(さみ)しいところである。背後(うしろ)は一帯(いったい)の山つづきで、ちょうどその峰通(みねどお)りは西山梨との郡堺(こおりざかい)になっているほどであるから、もちろん樵夫(きこり)や猟師(りょうし)でさえ踏(ふ)み越(こ)さぬ位の仕方の無い勾配(こうばい)の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地(ひくち)を越してのその対岸(むこう)もまた山々の連続(つながり)である。そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違(そうい)ないが、恐(おそ)ろしい高い山々が、余り高くって天に閊(つか)えそうだからわざと首を縮(すく)めているというような恰好(かっこう)をして、がん張(ば)っている状態(ありさま)は、あっちの邦土(くに)は誰(だれ)にも見せないと、意地悪く通(とお)せん坊(ぼう)をしているようにも見える位だ。その恐ろしい山々の一(ひ)ト列(つらな)りのむこうは武蔵(むさし)の国で、こっちの甲斐(かい)の国とは、まるで往来(ゆきかい)さえ絶えているほどである。昔時(むかし)はそれでも雁坂越と云(い)って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪(あや)しい地図に道路(みち)があるように書いてあるのもある。しかしこの釜和原から川上へ上(のぼ)って行くと下釜口(しもかまぐち)、釜川(かまがわ)、上釜口(かみかまぐち)というところがあるが、それで行止りになってしまうのだから、それから先はもうどこへも行きようは無いので、川を渡(わた)って東岸(ひがしぎし)に出たところが、やはり川下へ下(さが)るか、川浦(かわうら)という村から無理に東の方へ一ト山越して甲州|裏街道(うらかいどう)へと出るかの外には路(みち)も無いのだから、今では実際雁坂越の道は無いと云った方がよいのである。こういうように三方は山で塞(ふさ)がっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合(やまあい)が闊(ひろ)くなって、川が太(ふと)って、村々が賑(にぎ)やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会(みやこ)の甲府(こうふ)に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の人が甲府甲府と思っているのも無理は無いのである。
釜和原はこういったところであるから、言うまでも無く物寂(ものさ)びた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前に挙(あ)げた川上の二三ヶ村はいうに及(およ)ばず、此村(これ)から川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので、此村(ここ)にはいささかながら物を売る肆(みせ)も一二|軒(けん)あれば、物持だと云われている家(うち)も二三|戸(こ)はあるのである。
今この村の入口へ川上の方から来かかった十三ばかりの男の児(こ)がある。山間僻地(さんかんへきち)のここらにしてもちと酷過(ひどす)ぎる鍵裂(かぎざき)だらけの古布子(ふるぬのこ)の、しかもお坊(ぼう)さんご成人と云いたいように裾短(すそみじか)で裄短(ゆきみじか)で汚(よご)れ腐(くさ)ったのを素肌(すはだ)に着て、何だか正体の知れぬ丸木(まるき)の、杖(つえ)には長く天秤棒(てんびんぼう)には短いのへ、五合樽(ごんごうだる)の空虚(から)と見えるのを、樹(き)の皮を縄(なわ)代(がわ)りにして縛(くく)しつけて、それを担(かつ)いで、夏の炎天(えんてん)ではないからよいようなものの跣足(すあし)に被(かぶ)り髪(がみ)――まるで赤く無い金太郎(きんたろう)といったような風体(ふうてい)で、急足(いそぎあし)で遣(や)って来た。
すると路(みち)の傍(そば)ではあるが、川の方へ「なだれ」になっているところ一体に桑(くわ)が仕付(しつ)けてあるその遥(はるか)に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙(ひな)でも媚(なまめ)き立つ年頃(としごろ)だけに紅(あか)いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装(つくり)をして、小籃(こかご)を片手に、節こそ鄙(ひな)びてはおれど清らかな高い徹(とお)る声で、桑の嫩葉(わかば)を摘(つ)みながら歌を唄(うた)っていて、今しも一人(ひとり)が、
わたしぁ桑摘む主(ぬし)ぁ※(きざ)まんせ、春蚕(はるご)上簇(あが)れば二人(ふたり)着る。
と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、
桑を摘め摘め、爪紅(つまべに)さした 花洛(みやこ)女郎衆(じょろしゅ)も、桑を摘め。
と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄(す)んだ声で、断(た)えず鳴る笛吹川の川瀬(かわせ)の音をもしばしは人の耳から逐(お)い払ってしまったほどであった。
これを聞くとかの急ぎ歩(あし)で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅(おそ)くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興(うちきょう)じて笑い声を洩(も)らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉(は)越(ごし)に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静(しずか)であったが、また前の二人(ふたり)とは違(ちが)った声で、
桑は摘みたし梢(こずえ)は高し、
と唄い出したが、この声は前のように無邪気(むじゃき)に美しいのでは無かった。そうするとこれを聞いたこなたの汚(きたな)い衣服(なり)の少年は、その眼鼻立(めはなだち)の悪く無い割には無愛想(ぶあいそう)で薄淋(うすさみ)しい顔に、いささか冷笑(あざわら)うような笑(わらい)を現わした。唱(うた)の主(ぬし)はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、
誰に負われて摘んで取ろ。
と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬(やじうま)と出掛(でか)けたので、歌の主は吃驚(びっくり)してこちらを透(す)かして視(み)たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、
「源三(げんぞう)さんだよ、憎(にく)らしい。」
と誰に云ったのだか分らない語(ことば)を出しながら、いかにも蓮葉(はすは)に圃(はたけ)から出離れて、そして振り返って手招(てまね)ぎをして、
「源三さんだって云えば、お浪(なみ)さん。早く出てお出(い)でなネ。ホホわたし達が居るものだから羞(はずか)しがって、はにかんでいるの。ホホホ、なおおかしいよこの人は。」
と揶揄(からか)ったのは十八九のどこと無く嫌味(いやみ)な女であった。
源三は一向|頓着(とんじゃく)無く、
「何云ってるんだ、世話焼め。」
と口の中(うち)で云い棄(す)てて、またさっさと行き過ぎようとする。圃の中からは一番最初の歌の声が、
「何だネお近(ちか)さん、源三さんに託(かこつ)けて遊んでサ。わたしやお前はお浪さんの世話を焼かずと用さえすればいいのだあネ。サアこっちへ来てもっとお採(と)りよ。」
と少し叱(しか)り気味(ぎみ)で云うと、
「ハイ、ハイ、ご道理(もっとも)さまで。」
と戯(たわむ)れながらお近はまた桑を採りに圃へ入る。それと引違えて徐(しずか)に現れたのは、紫(むらさき)の糸のたくさんあるごく粗(あら)い縞(しま)の銘仙(めいせん)の着物に紅気(べにっけ)のかなりある唐縮緬(とうちりめん)の帯を締(し)めた、源三と同年(おないどし)か一つも上であろうかという可愛(かわい)らしい小娘である。
源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返(ふりかえ)って見た。途端(とたん)に罪の無い笑は二人の面に溢(あふ)れて、そして娘の歩(あし)は少し疾(はや)くなり、源三の歩(あし)は大(おおい)に遅(おそ)くなった。で、やがて娘は路(みち)――路といっても人の足の踏(ふ)む分だけを残して両方からは小草(おぐさ)が埋(うず)めている糸筋(いとすじ)ほどの路へ出て、その狭(せま)い路を源三と一緒(いっしょ)に仲好く肩を駢(なら)べて去った。その時やや隔(へだ)たった圃の中からまた起った歌の声は、
わたしぁ桑摘む主ぁ※まんせ、春蚕上簇れば二人着る。
という文句を追いかけるように二人の耳へ送った。それは疑いも無くお近の声で、わざと二人に聞かせるつもりで唱ったらしかった。
その二
「よっぽど此村(こっち)へは来なかったネ。」
と、浅く日の射(さ)している高い椽側(えんがわ)に身を靠(もた)せて話しているのはお浪で、此家(ここ)はお浪の家(うち)なのである。お浪の家は村で指折(ゆびおり)の財産(しんだい)よしであるが、不幸(ふしあわせ)に家族(ひと)が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使(めしつかい)も居れば傭(やとい)の男女(おとこおんな)も出入(ではい)りするから朝夕などは賑(にぎや)かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂(しずか)である。特(こと)に今、母はお浪の源三を連れて帰って来たのを見て、わたしはちょいと見廻(みまわ)って来るからと云って、少し離(はな)れたところに建ててある養蚕所(ようさんじょ)を監視(みまわり)に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人|限(きり)であるが、そこは巡査(おまわり)さんも月に何度かしか回って来ないほどの山間(やまあい)の片田舎(かたいなか)だけに長閑(のんき)なもので、二人は何の気も無く遊んでいるのである。が、上れとも云わなければ茶一つ出そうともしない代り、自分も付合って家へ上りもしないでいるのは、一つはお浪の心安立(こころやすだて)からでもあろうが、やはりまだ大人(おとな)びぬ田舎娘の素樸(きじ)なところからであろう。
源三の方は道を歩いて来たためにちと脚(あし)が草臥(くたびれ)ているからか、腰(こし)を掛(か)けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載(の)せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐(ね)ている大(おおき)な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽(かろ)く蹴(け)るように触(さわ)って見たりしている。日の光はちょうど二人の胸あたりから下の方に当っているが、日ざしに近くいるせいだか二人とも顔が薄(うっす)りと紅くなって、特(こと)に源三は美しく見える。
「よっぽどって、そうさ五日(いつか)六日(むいか)来なかったばかりだ。」
と源三はお浪の言葉に穏(おだ)やかに答えた。
「そんなものだったかネ、何だか大変長い間見えなかったように思ったよ。そして今日(きょう)はまた定(きま)りのお酒買いかネ。」
「ああそうさ、厭(いや)になっちまうよ。五六日は身体(からだ)が悪いって癇癪(かんしゃく)ばかり起してネ、おいらを打(ぶ)ったり擲(たた)いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済(す)んだが、もう癒(なお)ったからまた今日(きょう)っからは毎日だろう。
釜和原はこういったところであるから、言うまでも無く物寂(ものさ)びた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前に挙(あ)げた川上の二三ヶ村はいうに及(およ)ばず、此村(これ)から川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので、此村(ここ)にはいささかながら物を売る肆(みせ)も一二|軒(けん)あれば、物持だと云われている家(うち)も二三|戸(こ)はあるのである。
今この村の入口へ川上の方から来かかった十三ばかりの男の児(こ)がある。山間僻地(さんかんへきち)のここらにしてもちと酷過(ひどす)ぎる鍵裂(かぎざき)だらけの古布子(ふるぬのこ)の、しかもお坊(ぼう)さんご成人と云いたいように裾短(すそみじか)で裄短(ゆきみじか)で汚(よご)れ腐(くさ)ったのを素肌(すはだ)に着て、何だか正体の知れぬ丸木(まるき)の、杖(つえ)には長く天秤棒(てんびんぼう)には短いのへ、五合樽(ごんごうだる)の空虚(から)と見えるのを、樹(き)の皮を縄(なわ)代(がわ)りにして縛(くく)しつけて、それを担(かつ)いで、夏の炎天(えんてん)ではないからよいようなものの跣足(すあし)に被(かぶ)り髪(がみ)――まるで赤く無い金太郎(きんたろう)といったような風体(ふうてい)で、急足(いそぎあし)で遣(や)って来た。
すると路(みち)の傍(そば)ではあるが、川の方へ「なだれ」になっているところ一体に桑(くわ)が仕付(しつ)けてあるその遥(はるか)に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙(ひな)でも媚(なまめ)き立つ年頃(としごろ)だけに紅(あか)いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装(つくり)をして、小籃(こかご)を片手に、節こそ鄙(ひな)びてはおれど清らかな高い徹(とお)る声で、桑の嫩葉(わかば)を摘(つ)みながら歌を唄(うた)っていて、今しも一人(ひとり)が、
わたしぁ桑摘む主(ぬし)ぁ※(きざ)まんせ、春蚕(はるご)上簇(あが)れば二人(ふたり)着る。
と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、
桑を摘め摘め、爪紅(つまべに)さした 花洛(みやこ)女郎衆(じょろしゅ)も、桑を摘め。
と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄(す)んだ声で、断(た)えず鳴る笛吹川の川瀬(かわせ)の音をもしばしは人の耳から逐(お)い払ってしまったほどであった。
これを聞くとかの急ぎ歩(あし)で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅(おそ)くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興(うちきょう)じて笑い声を洩(も)らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉(は)越(ごし)に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静(しずか)であったが、また前の二人(ふたり)とは違(ちが)った声で、
桑は摘みたし梢(こずえ)は高し、
と唄い出したが、この声は前のように無邪気(むじゃき)に美しいのでは無かった。そうするとこれを聞いたこなたの汚(きたな)い衣服(なり)の少年は、その眼鼻立(めはなだち)の悪く無い割には無愛想(ぶあいそう)で薄淋(うすさみ)しい顔に、いささか冷笑(あざわら)うような笑(わらい)を現わした。唱(うた)の主(ぬし)はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、
誰に負われて摘んで取ろ。
と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬(やじうま)と出掛(でか)けたので、歌の主は吃驚(びっくり)してこちらを透(す)かして視(み)たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、
「源三(げんぞう)さんだよ、憎(にく)らしい。」
と誰に云ったのだか分らない語(ことば)を出しながら、いかにも蓮葉(はすは)に圃(はたけ)から出離れて、そして振り返って手招(てまね)ぎをして、
「源三さんだって云えば、お浪(なみ)さん。早く出てお出(い)でなネ。ホホわたし達が居るものだから羞(はずか)しがって、はにかんでいるの。ホホホ、なおおかしいよこの人は。」
と揶揄(からか)ったのは十八九のどこと無く嫌味(いやみ)な女であった。
源三は一向|頓着(とんじゃく)無く、
「何云ってるんだ、世話焼め。」
と口の中(うち)で云い棄(す)てて、またさっさと行き過ぎようとする。圃の中からは一番最初の歌の声が、
「何だネお近(ちか)さん、源三さんに託(かこつ)けて遊んでサ。わたしやお前はお浪さんの世話を焼かずと用さえすればいいのだあネ。サアこっちへ来てもっとお採(と)りよ。」
と少し叱(しか)り気味(ぎみ)で云うと、
「ハイ、ハイ、ご道理(もっとも)さまで。」
と戯(たわむ)れながらお近はまた桑を採りに圃へ入る。それと引違えて徐(しずか)に現れたのは、紫(むらさき)の糸のたくさんあるごく粗(あら)い縞(しま)の銘仙(めいせん)の着物に紅気(べにっけ)のかなりある唐縮緬(とうちりめん)の帯を締(し)めた、源三と同年(おないどし)か一つも上であろうかという可愛(かわい)らしい小娘である。
源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返(ふりかえ)って見た。途端(とたん)に罪の無い笑は二人の面に溢(あふ)れて、そして娘の歩(あし)は少し疾(はや)くなり、源三の歩(あし)は大(おおい)に遅(おそ)くなった。で、やがて娘は路(みち)――路といっても人の足の踏(ふ)む分だけを残して両方からは小草(おぐさ)が埋(うず)めている糸筋(いとすじ)ほどの路へ出て、その狭(せま)い路を源三と一緒(いっしょ)に仲好く肩を駢(なら)べて去った。その時やや隔(へだ)たった圃の中からまた起った歌の声は、
わたしぁ桑摘む主ぁ※まんせ、春蚕上簇れば二人着る。
という文句を追いかけるように二人の耳へ送った。それは疑いも無くお近の声で、わざと二人に聞かせるつもりで唱ったらしかった。
その二
「よっぽど此村(こっち)へは来なかったネ。」
と、浅く日の射(さ)している高い椽側(えんがわ)に身を靠(もた)せて話しているのはお浪で、此家(ここ)はお浪の家(うち)なのである。お浪の家は村で指折(ゆびおり)の財産(しんだい)よしであるが、不幸(ふしあわせ)に家族(ひと)が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使(めしつかい)も居れば傭(やとい)の男女(おとこおんな)も出入(ではい)りするから朝夕などは賑(にぎや)かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂(しずか)である。特(こと)に今、母はお浪の源三を連れて帰って来たのを見て、わたしはちょいと見廻(みまわ)って来るからと云って、少し離(はな)れたところに建ててある養蚕所(ようさんじょ)を監視(みまわり)に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人|限(きり)であるが、そこは巡査(おまわり)さんも月に何度かしか回って来ないほどの山間(やまあい)の片田舎(かたいなか)だけに長閑(のんき)なもので、二人は何の気も無く遊んでいるのである。が、上れとも云わなければ茶一つ出そうともしない代り、自分も付合って家へ上りもしないでいるのは、一つはお浪の心安立(こころやすだて)からでもあろうが、やはりまだ大人(おとな)びぬ田舎娘の素樸(きじ)なところからであろう。
源三の方は道を歩いて来たためにちと脚(あし)が草臥(くたびれ)ているからか、腰(こし)を掛(か)けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載(の)せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐(ね)ている大(おおき)な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽(かろ)く蹴(け)るように触(さわ)って見たりしている。日の光はちょうど二人の胸あたりから下の方に当っているが、日ざしに近くいるせいだか二人とも顔が薄(うっす)りと紅くなって、特(こと)に源三は美しく見える。
「よっぽどって、そうさ五日(いつか)六日(むいか)来なかったばかりだ。」
と源三はお浪の言葉に穏(おだ)やかに答えた。
「そんなものだったかネ、何だか大変長い間見えなかったように思ったよ。そして今日(きょう)はまた定(きま)りのお酒買いかネ。」
「ああそうさ、厭(いや)になっちまうよ。五六日は身体(からだ)が悪いって癇癪(かんしゃく)ばかり起してネ、おいらを打(ぶ)ったり擲(たた)いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済(す)んだが、もう癒(なお)ったからまた今日(きょう)っからは毎日だろう。
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