雛妓 - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )
なに事も夢のようである。わたくしはスピードののろい田舎の自動車で街道筋を送られ、眼にまぼろしの都大路に入った。わが家の玄関へ帰ったのは春のたそがれ近くである。花に匂(にお)いもない黄楊(つげ)の枝が触れている呼鈴を力なく押す。
老婢(ろうひ)が出て来て桟の多い硝子戸(ガラスど)を開けた。わたくしはそれとすれ違いさま、いつもならば踏石の上にのって、催促がましく吾妻下駄(あずまげた)をかんかんと踏み鳴らし、二階に向って「帰ってよ」と声をかけるのである。
すると二階にいる主人の逸作は、画筆を擱(お)くか、うたた寝の夢を掻(か)きのけるかして、急いで出迎えて呉(く)れるのである。「無事に帰って来たか、よしよし」
この主人に対する出迎えの要求は子供っぽく、また、失礼な所作なのではあるまいか。わたくしはときどきそれを考えないことはない。しかし、こうして貰わないと、わたくしはほんとに家へ帰りついた気がしないのである。わが家がわが家のあたたかい肌身にならない。
もし相手が条件附の好意なら、いかに懐き寄り度(た)い心をも押し伏せて、ただ寂しく黙っている。もし相手が無条件を許すならば暴君と見えるまで情を解き放って心を相手に浸み通らせようとする。とかくに人に対して中庸を得てないわたくしの血筋の性格である。生憎(あいにく)とそれをわたくしも持ち伝えてその一方をここにも現すのかと思うとわたくしは悲しくなる。けれども逸作は、却(かえ)ってそれを悦(よろこ)ぶのである。「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」
こういうとき逸作の眼は涙を泛(うか)べている。
きょうは踏石を吾妻下駄で踏み鳴らすことも「帰ってよ」と叫ぶこともしないで、すごすごと玄関の障子を開けて入るわたくしの例外の姿を不審がって見る老婢をあとにして、わたくしは階段を上って逸作の部屋へ行った。
十二畳ほどの二方硝子窓の洋間に畳が敷詰めてある。描きさしの画の傍に逸作は胡坐(あぐら)をかき、茶菓子の椿餅(つばきもち)の椿の葉を剥(は)がして黄昏(たそがれ)の薄光に頻(しき)りに色を検めて見ていた。
「これほどの色は、とても絵の具では出ないぞ」
ひとり言のように言いながら、その黒光りのする緑の椿の葉から用心深くわたくしの姿へ眼を移し上げて来て、その眼がわたくしの顔に届くと吐息をした。
「やっぱり、だめだったのか。――そうか」と言った。
わたくしは頷(うなず)いて見せた。そして、もうそのときわたくしは敷居の上へじわじわと坐(すわ)り蹲(しゃが)んでいた。頭がぼんやりしていて涙は零(こぼ)さなかった。
わたくしは心配性の逸作に向って、わたくしが父の死を見て心悸(しんき)を亢進(こうしん)させ、実家の跡取りの弟の医学士から瀉血(しゃけつ)されたことも、それから通夜の三日間|静臥(せいが)していたことも、逸作には話さなかった。ただ父に就(つい)ては、
「七十二になっても、まだ髪は黒々としていましたわ。死にたくなさそうだったようですわ」
それから、父は隠居所へ隠居してから謙譲を守って、足袋(たび)や沓下(くつした)は息子の穿(は)き古しよりしか穿かなかったことや、後のものに迷惑でもかけるといけないと言って、どうしても後妻の籍を入れさせなかったことや、多少、父を逸作に取做(とりな)すような事柄を話した。免作は腕組をして聴いていたが、
「あの平凡で気の弱い大家の旦那(だんな)にもそれがあったかなあ。やっぱり旧家の人間というものにはひと節あるなあ」
と、感じて言った。わたくしは、なお自分の感想を述べて、
「気持ちはこれで相当しっかりしているつもりですが、身体がいうことを聞かなくなって……。これはたましいよりも何だか肉体に浸(し)み込んだ親子の縁のように思いますわ」と言った。
すると逸作は腕組を解いて胸を張り拡(ひろ)げ、「つまらんことを言うのは止せよ。それよか、疲労(つか)れてなければ、おい、これから飯を食いに出掛けよう。服装はそれでいいのか」
と言って立上った。わたくしは、これも、なにかの場合に機先を制してそれとなくわたくしの頽勢(たいせい)を支えて呉(く)れるいつもの逸作の気配りの一つと思い、心で逸作を伏し拝みながら、さすがに気がついて「一郎は」と、息子のことを訊(き)いてみた。
逸作はたちまち笑み崩れた。
「まだ帰って来ない。あいつ、研究所の帰りに銀座へでも廻(まわ)って、また鼻つまりの声で友達とピカソでも論じてるのだろう」
弁天堂の梵鐘(ぼんしょう)が六時を撞(つ)く間、音があまりに近いのでわたくしは両手で耳を塞(ふさ)いでいた。
ここは不忍(しのばず)の池の中ノ島に在る料亭、蓮中庵の角座敷である。水に架け出されていて、一枚だけ開けひろげてある障子の間から、その水を越して池の端のネオンの町並が見亙(みわた)せる。
逸作は食卓越しにわたくしの腕を揺り、
「鐘の音は、もう済んだ」と言って、手を離したわたくしの耳を指さし、
「歌を詠む参考に水鳥の声をよく聞いときなさい。もう、鴨(かも)も雁(がん)も鵜(う)も北の方へ帰る時分だから」と言った。
逸作がご飯を食べに連れて行くといって、いつもの銀座か日本橋方面へは向わず、山の手からは遠出のこの不忍の池へ来たのには理由があった。いまから十八年前、画学生の逸作と娘歌人のわたくしとは、同じ春の宵に不忍池を観月橋の方から渡って同じくこの料亭のこの座敷でご飯を食べたのであった。逸作はそれから後、猛然とわたくしの実家へ乗り込んでわたくしの父母に強引にわたくしへの求婚をしたのであった。
「あのとき、ここでした君との話を覚えているか。いまのこの若き心を永遠に失うまいということだったぜ」
父の死によって何となく身体に頽勢の見えたわたくしを気遣い逸作は、この料亭のこの座敷でした十八年前の話の趣旨をわたくしの心に蘇(よみがえ)らせようとするのであった。わたくしもその誓いは今も固く守っている。
老婢(ろうひ)が出て来て桟の多い硝子戸(ガラスど)を開けた。わたくしはそれとすれ違いさま、いつもならば踏石の上にのって、催促がましく吾妻下駄(あずまげた)をかんかんと踏み鳴らし、二階に向って「帰ってよ」と声をかけるのである。
すると二階にいる主人の逸作は、画筆を擱(お)くか、うたた寝の夢を掻(か)きのけるかして、急いで出迎えて呉(く)れるのである。「無事に帰って来たか、よしよし」
この主人に対する出迎えの要求は子供っぽく、また、失礼な所作なのではあるまいか。わたくしはときどきそれを考えないことはない。しかし、こうして貰わないと、わたくしはほんとに家へ帰りついた気がしないのである。わが家がわが家のあたたかい肌身にならない。
もし相手が条件附の好意なら、いかに懐き寄り度(た)い心をも押し伏せて、ただ寂しく黙っている。もし相手が無条件を許すならば暴君と見えるまで情を解き放って心を相手に浸み通らせようとする。とかくに人に対して中庸を得てないわたくしの血筋の性格である。生憎(あいにく)とそれをわたくしも持ち伝えてその一方をここにも現すのかと思うとわたくしは悲しくなる。けれども逸作は、却(かえ)ってそれを悦(よろこ)ぶのである。「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」
こういうとき逸作の眼は涙を泛(うか)べている。
きょうは踏石を吾妻下駄で踏み鳴らすことも「帰ってよ」と叫ぶこともしないで、すごすごと玄関の障子を開けて入るわたくしの例外の姿を不審がって見る老婢をあとにして、わたくしは階段を上って逸作の部屋へ行った。
十二畳ほどの二方硝子窓の洋間に畳が敷詰めてある。描きさしの画の傍に逸作は胡坐(あぐら)をかき、茶菓子の椿餅(つばきもち)の椿の葉を剥(は)がして黄昏(たそがれ)の薄光に頻(しき)りに色を検めて見ていた。
「これほどの色は、とても絵の具では出ないぞ」
ひとり言のように言いながら、その黒光りのする緑の椿の葉から用心深くわたくしの姿へ眼を移し上げて来て、その眼がわたくしの顔に届くと吐息をした。
「やっぱり、だめだったのか。――そうか」と言った。
わたくしは頷(うなず)いて見せた。そして、もうそのときわたくしは敷居の上へじわじわと坐(すわ)り蹲(しゃが)んでいた。頭がぼんやりしていて涙は零(こぼ)さなかった。
わたくしは心配性の逸作に向って、わたくしが父の死を見て心悸(しんき)を亢進(こうしん)させ、実家の跡取りの弟の医学士から瀉血(しゃけつ)されたことも、それから通夜の三日間|静臥(せいが)していたことも、逸作には話さなかった。ただ父に就(つい)ては、
「七十二になっても、まだ髪は黒々としていましたわ。死にたくなさそうだったようですわ」
それから、父は隠居所へ隠居してから謙譲を守って、足袋(たび)や沓下(くつした)は息子の穿(は)き古しよりしか穿かなかったことや、後のものに迷惑でもかけるといけないと言って、どうしても後妻の籍を入れさせなかったことや、多少、父を逸作に取做(とりな)すような事柄を話した。免作は腕組をして聴いていたが、
「あの平凡で気の弱い大家の旦那(だんな)にもそれがあったかなあ。やっぱり旧家の人間というものにはひと節あるなあ」
と、感じて言った。わたくしは、なお自分の感想を述べて、
「気持ちはこれで相当しっかりしているつもりですが、身体がいうことを聞かなくなって……。これはたましいよりも何だか肉体に浸(し)み込んだ親子の縁のように思いますわ」と言った。
すると逸作は腕組を解いて胸を張り拡(ひろ)げ、「つまらんことを言うのは止せよ。それよか、疲労(つか)れてなければ、おい、これから飯を食いに出掛けよう。服装はそれでいいのか」
と言って立上った。わたくしは、これも、なにかの場合に機先を制してそれとなくわたくしの頽勢(たいせい)を支えて呉(く)れるいつもの逸作の気配りの一つと思い、心で逸作を伏し拝みながら、さすがに気がついて「一郎は」と、息子のことを訊(き)いてみた。
逸作はたちまち笑み崩れた。
「まだ帰って来ない。あいつ、研究所の帰りに銀座へでも廻(まわ)って、また鼻つまりの声で友達とピカソでも論じてるのだろう」
弁天堂の梵鐘(ぼんしょう)が六時を撞(つ)く間、音があまりに近いのでわたくしは両手で耳を塞(ふさ)いでいた。
ここは不忍(しのばず)の池の中ノ島に在る料亭、蓮中庵の角座敷である。水に架け出されていて、一枚だけ開けひろげてある障子の間から、その水を越して池の端のネオンの町並が見亙(みわた)せる。
逸作は食卓越しにわたくしの腕を揺り、
「鐘の音は、もう済んだ」と言って、手を離したわたくしの耳を指さし、
「歌を詠む参考に水鳥の声をよく聞いときなさい。もう、鴨(かも)も雁(がん)も鵜(う)も北の方へ帰る時分だから」と言った。
逸作がご飯を食べに連れて行くといって、いつもの銀座か日本橋方面へは向わず、山の手からは遠出のこの不忍の池へ来たのには理由があった。いまから十八年前、画学生の逸作と娘歌人のわたくしとは、同じ春の宵に不忍池を観月橋の方から渡って同じくこの料亭のこの座敷でご飯を食べたのであった。逸作はそれから後、猛然とわたくしの実家へ乗り込んでわたくしの父母に強引にわたくしへの求婚をしたのであった。
「あのとき、ここでした君との話を覚えているか。いまのこの若き心を永遠に失うまいということだったぜ」
父の死によって何となく身体に頽勢の見えたわたくしを気遣い逸作は、この料亭のこの座敷でした十八年前の話の趣旨をわたくしの心に蘇(よみがえ)らせようとするのであった。わたくしもその誓いは今も固く守っている。
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