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雪代山女魚 - 佐藤 垢石 ( さとう こうせき )

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       一  奥山の仙水(せんすい)に、山女魚(やまめ)を釣るほんとうの季節がきた。  早春、崖の南側の陽(ひ)だまりに、蕗(ふき)の薹(とう)が立つ頃になると、渓間の佳饌(かせん)山女魚は、俄(にわか)に食趣をそそるのである。その濃淡な味感を想うとき、嗜欲(しよく)の情そぞろに起こって、我が肉虜おのずから肥ゆるを覚えるのである。けれど、この清冷肌に徹する流水に泳ぐ山女魚の鮮脂を賞喫する道楽は、深渓を探る釣り人にばかり恵まれた奢(おご)りであろう。水際の猫楊(ねこやなぎ)の花が鵞毛のように水上を飛ぶ風景と、端麗神姫に似た山女魚の姿を眼に描けば、耽味の奢り舌に蘇りきたるを禁じ得ないのである。
 青銀色の、鱗の底から光る薄墨ぼかしの紫は、瓔珞(ようらく)の面に浮く艶やかに受ける印象と同じだ。魚体の両側に正しく並んだ十三個ずつの小判型した濃紺の斑点は、渓流美姫への贈物として、水の精から頂戴した心尽くしの麗装に違いない。しかも藍色の背肌に、朱玉をちりばめしにも似て点在する小さく丸い紅のまだらは、ひとしお山女魚の姿容を飾っている。黒く大きい、くるくるとした眼、滑らかに丸い頭、あらゆる淡水魚のうち、山女魚ほどの身だしなみは、他に類を求め得られまいと思う。
 渓のなぎさに、葦の芽がすくすくと伸びた早春の頃は、数多山女魚が釣れる。山の釣り人はこれを雪代(ゆきしろ)山女魚といっている。また、肉充ち脂乗って、味覚に溶け込む風趣を持ってくるのは、初夏から、渓水の涼風肌を慰める土用頃である。これを至味の変と言う。
 近年、都会人に渓流魚釣りの技が普及して、三月の声を聞くともう、魚籠(びく)を腰にして東京に近い渓谷へ我れも我れもと分け入り、重たいほど釣り溜めて帰ってくる。そして、渓流魚釣り世間で言うほどむずかしいものではない、と語るが渓流魚釣りの真髄を味わい得るのは、山女魚活動が敏捷になった初夏の候、谷の流れ澄明(ちょうめい)、底石の姿がはっきりとなる、朝と夕べのまずめであろう。
 くさむらから香りの高い山百合が覗く崖の下に立って、羽虫に似た毛鈎(けばり)を繰り、上下の対岸から手前の方下流へ、チョンチョンチョン、水面叩きながら引き寄せるうち、ガバと水をわって躍り出山女魚の姿を見るのは、晩春の夕|陽(ひ)が山頂の西の雲を緋に染めた一刻である。ひらひらと水鳥の白羽を道糸の目印につけて、鈎を流水の中層に流す餌にも山女魚の餌につく振舞に、何とも言えぬ興趣を感ずる。毛鈎の叩き釣りの豪快には比すべくもない。
 引く、引く。鈎をくわえて水の中層を下流に向かって逸走の動作に帰れば、竿の穂先は折れんばかりに撓(たわ)む。抜きあげて、掌に握った時の山女魚の肌の感触。これは釣りする人でなければ語り得まい。渓流魚釣りの魅力に陶酔する所以(ゆえん)である。

       二

 岩の割れ目から、月の雫のように清水の玉が滴り落ち渓流の源には、山椒魚(さんしょううお)が棲んでいる。これは、源流の水温が最も低いからである。源流が下(くだ)って、せせらぎとなり滝に移るところには岩魚(いわな)が棲む。岩魚も冷たい水を好むからだ。それから下流には、山女魚が泳いでいる。岩魚も、山女魚摂氏(せっし)十八度より高い水温を嫌う。であるから、この二つの魚は冷寂な渓流を好んで、里に近い流れには、あまりに姿を見せないのである。時に山女魚は、鮎やはやの棲む中流へも姿を現わすことがあるが、それは甚だまれだ。
 山女魚岩魚は共に鮭科に属し、近い親戚ではあるが姿や習性が幾分違う
 地方によって呼び名も違う東京では正しくヤマメと言っているけれど、栃木県群馬県桐生地方ではヤモと呼び、福島県宮城県北海道などではヤマベと称している。また、ヤモメと言っているところもある。岐阜県から、滋賀県京都府へかけてはアメノウオ、またはアマゴなどと呼び、中国地方ではヒラメ、九州ではエノハと名づけている。台湾大甲渓に棲んでいるサマラオコスも、山女魚であると言う。
 山女魚は、鱒(ます)の子によく似ている。姿全体と言い、紫色に光る鱗と言い、十三個の斑点の並びまで、山女魚と鱒の子は殆ど見分けがつかない。初心釣り人は鱒の子を釣って山女魚であるということがあるが、仔細に見るとどこか異なっている。鱒の子は山女魚に比べると鰓蓋が少し長い。そこで、所によって鱒の子を『頬長(ほほなが)』とも呼んでいる。そして鱒の子は、山女魚よりも肌に白銀色の光りが強く、腹の方は真っ白であると言っていいのである。また山女魚の鱗は、肌にしっかりとついているが鱒の子の鱗は剥げやすい。それは、塩鮭と塩鱒を見分ける時、鱗の剥げやすい方を鱒であるとするのと同じである。
 ここで指す鱒というのは、昔から日本の川へ海から遡ってきた在来種であって、外国種の鱒ではない。山女魚、鱒の子ではほんとうによく似ているが、親鱒とは直ちに区別がつく。親鱒は形が大きく山女魚は小さいというばかりでなく、肌の色が全く異なっている。親鱒は背が青銀色で腹の方へ白く、紫の艶というものがない。明らか区別のつくのは楕円形十三個の斑点が消えてしまっていることで、それだけ親鱒は山女魚に比べて、美しさが劣っていると言ってよかろう。


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