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霧の旅 - 吉江 喬松 ( よしえ たかまつ )

  • 週刊日本の街道 60号 能登路・外浦街道~内浦街道・03年7月15日
  • 朝日文庫30司馬遼太郎『甲州街道・長州街道ほか』街道をゆく1
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  • LD♪ロマンチック街道♪夢の中の夢街道350kmの旅・NHK
  • ☆街道紀行(千国街道編)収録!【駅すぱあと】2006年 7・8月版
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  • ★ドイツの道路地図★ロマンチック街道の道路地図も
  • 朗読CD 朗読街道30「魔術・妙な話・春の夜」芥川龍之介
  • 朗読CD 朗読街道27「母を尋ねて三千里」アミーチス 
  • 朗読CD 朗読街道12「源氏物語 夢の浮橋」紫式部
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 北國(ほくこく)街道の上には夏草がのびてゐた。  柏原(かしはばら)から野尻湖まで一里ばかりの間、朝霧が深くかゝつてゐて、路上の草には露が重かつた。汽車をおりて初めて大地を踏んで行く草鞋の心持、久振で旅を味ふ心には、總てが鮮かに感じられた。
 柏原には一茶(いつさ)の俳諧寺(はいかいじ)の在ることは聞いてゐたが、霧が深くて見に行く氣にもなれなかつた。何處の國道沿ひにでも見る破驛(はえき)の姿は此村にも見られた。桑の葉の蒸されたやうな香ひと、上簇期(じやうぞくき)に近い夏蠶(なつこ)の臭ひとが、家々の戸口からもれて、路上に漂つてゐた。
 村を出拔けると、霧の間から白樺の林の樹幹(みき)だけが、ぼんやりと兩側に見えて來た。しとしと草を踏んで行く自分草鞋足音だけが耳に入つた。不圖立ち停ると、急に周圍がしんとして來る。霧が一層濃く覆ひ被さつて來るやうな氣がする。其中で、霧が林の木の枝に引きかゝり、白樺の簇葉(むらは)にからまつて、やがて重い露となつて、ぼた/\草の上へ落ちるのが聞える。
 又ぱた/\と歩き出す。と、向うの方から農夫らしい風をした男が二人ばかり、ぼんやり霧の中へ浮ぶやうに姿を見せるかと思ふと、擦れ違つて、直ぐまた後の方へ消えてしまふ。
 何のために、何處へ歩いて行くのであらう?
 何を目當に旅へ出たのだらう? 何處へ行つたらば、其目的のものが得られるのだらう? 何故旅を思ふときに自分の胸は躍るのだらう? この樣な考えが不圖胸の中へ浮んで來る。
「寂しさの果て」を求めて旅へ行く、さういふ旅でもないらしい。旅へ出なければ消されない程の寂しさを常々感じてゐるわけでもない。目先の違つた景色を求めて歩く、それ程に自然を無變化な、靜的なものだとも考へても居ない。美しい景色とか、變化の多い景色とか、さういふものを搜して歩く好奇心自分の胸に起つたこともない。それでは何故か。何を求めて歩いて居るのだらう。何處へ行つたらば、その求めてゐるものが得られるのだらう。靜かに引きしまつた自分の心の中へ何が蘇生(よみがへ)つて來るのか、何が浮んで來るのか、私はそれを求めてゐる。恐ろしさと悦(うれ)しさの期待を持つてそれを求めてゐる。
 新聞も見ず、手紙も見ず、友人にも離れ、知人にも逢はず、職業にも刺戟にも都會のどよめきにも、電車の響にも總てに離れて、私は歩いて行く。廣い自由の天地の中をたゞ一人で歩いて行く。其時私の心の中へ、胸の中へ、頭の中へ、浮んで來るものは何であらう。私はその者を捉へたさに、その者の閃きが何處へ現はれようとも、――森の中であらうとも、山の頂であらうとも、海岸であらうとも、力の總てを盡してその方へ走らずに居られない。
 私はプレジュアー、ハンターが歡樂を追ふやうに、ドンジュァンが千人の女を抱くやうに、しかも幾人(いくたり)の女を抱いても、幾多の歡樂を盡しても、彼の求めてゐる女は一人であり、彼の願ふ歡樂は唯一つであるやうに、私はそのものを求めて歩いてゐるのであらう。それは私には決して空漠たる願望でない。私にはその求めるものは、はつきりしてゐる。たゞそれの表はれる場所と、それの表はれるやうな自分の心構へとを得たいと思つて歩いてゐる。
 霧が帽子の縁に突裂かれて、さあツ、さあツと音を立てるやうに思はれる。地上足の向いて行く三尺ぐらゐ前が目に入るだけになつた。今にもこの濃い霧が一時に崩れて雨となりはしまいか。でなければ、この霧が一時に凝結して動きのとれないものになつてしまひはしないか。そんな事を思ひながら歩いて行くと、今迄動かずに一層深く/\集つてゐた霧が次第に少しづつ流れ出した。濃淡の差別(けじめ)を見せて周圍に流れ出した。上の方へ、林の頂へ逃げるやうに昇つて行くもの、下の方へ、草叢の中へ低く爬ふやうに迷ひ込むもの、その中間を透して、豆畑や粟の畑や、草原白樺の幹やがぼんやり見えて來る。農家が一二軒處々に立つてゐるのが目に入る。
 太陽は、晝間見る月のやうに、たゞ薄白く、霧の薄れた中から形だけ見せるけれど、光をば散らさない。その形も見えたかと思ふと、直ぐ霧の中に隱れてしまふ。不圖鶯の聲が白樺の林の中から響いて來た。霧の中にこめられたその聲は、祕めた歡樂をうたふやうに、低い平原國を追はれたものが、山の中へ來て思ふまゝの自由を享樂してゐるやうに、何人をも憚らず唄つてゐる。
 霧の薄れて行く林の中から、蝉の聲がまた聞え出した。迷つてゐる者に道を教へるやうに、日中が近寄つて來ることを告げるやうに、身をゆすぶり、木をゆすぶり、林をゆすぶつて、立ちこめる霧を追ひやるやうに鳴き出した。
 蘆のこんもり群立つてゐる姿が處々に見えだした。水溜が次第に近寄つて來たことを思はせる。その中からけたたましく行々子(よしきり)の聲が騷ぎ立てる。何ものかの警告を與へるやうに、今まで默つてゐたものが不意に目を醒ましたやうに。
 今までは默々として動き※つてゐた霧が、天地を我もの顏に領してゐたのだが、今度は一つ一つ聲を立てゝ、飛び※るものの生命が目を醒まして來た。


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