革鞄の怪 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
「そんな事があるものですか。」
「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰(つま)らないと思う後(あと)から声がします。」
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構(あるおおがまえ)の旅館の奥の、母屋(おもや)から板廊下を遠く隔てた離座敷(はなれざしき)らしい十畳の広間に泊った。
はじめ、停車場(ステイション)から俥(くるま)を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
で、上靴を穿(は)かせて、つるつるする広い取着(とッつき)の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段(はしごだん)を上(あが)って行(ゆ)くので、連(つれ)の男は一段踏掛けながら慌(あわただ)しく云った。
「三階か。」
「へい、四階(しかい)でございます。」と横に開いて揉手(もみで)をする。
「そいつは堪(たま)らんな、下座敷は無いか。――貴方(あなた)はいかがです。」
途中で見た上阪(のぼりざか)の中途に、ばりばりと月に凍(い)てた廻縁(まわりえん)の総硝子(そうがらす)。紅色(べにいろ)の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透(みとお)しに高い四階は落着かない。
「私も下が可(い)い。」
「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他(ほか)には唯今(ただいま)どうも、へい、へい。」
「古くっても構わん。」
とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
人の事は云われないが、連(つれ)の男も、身体(からだ)つきから様子、言語(ものいい)、肩の瘠(や)せた処、色沢(いろつや)の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上(しんしょう)ありたけを詰込(つめこ)んだ、と自ら称(とな)える古革鞄(ふるかばん)の、象を胴切りにしたような格外の大(おおき)さで、しかもぼやけた工合(ぐあい)が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
私は枕を擡(もた)げずにはいられなかった。
時に、当人は、もう蒲団(ふとん)から摺出(ずりだ)して、茶縞(ちゃじま)に浴衣を襲(かさ)ねた寝着(ねまき)の扮装(なり)で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角(まっしかく)。
で、二|間(けん)の――これには掛(かけ)ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件(くだん)の大革鞄があるのである。
白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨(ふく)だみを揺(ゆす)った形が、元来、仔細(しさい)の無い事はなかった。
今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨(わらび)を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
私は妙な事を思出したのである。
やがて、十八九年も経(た)ったろう。小児(こども)がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間(まっぴるま)。両側に小屋を並べた見世(みせ)ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
血だらけ、白粉(おしろい)だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多(あまた)の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
続き、上下(うえした)におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖(ふすま)に黄金箔(きんぱく)、引手に朱の総(ふさ)を提げるまで手を籠(こ)めた……芝居がかりの五十三次。
岡崎の化猫が、白髪(しらが)の牙(きば)に血を滴らして、破簾(やれみす)よりも顔の青い、女を宙に啣(くわ)えた絵の、無慙(むざん)さが眼(まなこ)を射る。
二
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
と嗾(そそ)る。……
が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上(もみあ)げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散(まきち)らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴(はおりはかま)が一人、真中(まんなか)に、白襟、空色|紋着(もんつき)の、廂髪(ひさしがみ)で痩(や)せこけた女が一人|交(まじ)って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言(ものい)わず。
ただ、時々……
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然(もくねん)として澄まし返る。
容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣(おもむき)。※(もが)き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕(あらわ)れて、裡(うち)の面白さが思遣(おもいや)られる。
うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構(あるおおがまえ)の旅館の奥の、母屋(おもや)から板廊下を遠く隔てた離座敷(はなれざしき)らしい十畳の広間に泊った。
はじめ、停車場(ステイション)から俥(くるま)を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
で、上靴を穿(は)かせて、つるつるする広い取着(とッつき)の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段(はしごだん)を上(あが)って行(ゆ)くので、連(つれ)の男は一段踏掛けながら慌(あわただ)しく云った。
「三階か。」
「へい、四階(しかい)でございます。」と横に開いて揉手(もみで)をする。
「そいつは堪(たま)らんな、下座敷は無いか。――貴方(あなた)はいかがです。」
途中で見た上阪(のぼりざか)の中途に、ばりばりと月に凍(い)てた廻縁(まわりえん)の総硝子(そうがらす)。紅色(べにいろ)の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透(みとお)しに高い四階は落着かない。
「私も下が可(い)い。」
「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他(ほか)には唯今(ただいま)どうも、へい、へい。」
「古くっても構わん。」
とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
人の事は云われないが、連(つれ)の男も、身体(からだ)つきから様子、言語(ものいい)、肩の瘠(や)せた処、色沢(いろつや)の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上(しんしょう)ありたけを詰込(つめこ)んだ、と自ら称(とな)える古革鞄(ふるかばん)の、象を胴切りにしたような格外の大(おおき)さで、しかもぼやけた工合(ぐあい)が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
私は枕を擡(もた)げずにはいられなかった。
時に、当人は、もう蒲団(ふとん)から摺出(ずりだ)して、茶縞(ちゃじま)に浴衣を襲(かさ)ねた寝着(ねまき)の扮装(なり)で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角(まっしかく)。
で、二|間(けん)の――これには掛(かけ)ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件(くだん)の大革鞄があるのである。
白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨(ふく)だみを揺(ゆす)った形が、元来、仔細(しさい)の無い事はなかった。
今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨(わらび)を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
私は妙な事を思出したのである。
やがて、十八九年も経(た)ったろう。小児(こども)がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間(まっぴるま)。両側に小屋を並べた見世(みせ)ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
血だらけ、白粉(おしろい)だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多(あまた)の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
続き、上下(うえした)におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖(ふすま)に黄金箔(きんぱく)、引手に朱の総(ふさ)を提げるまで手を籠(こ)めた……芝居がかりの五十三次。
岡崎の化猫が、白髪(しらが)の牙(きば)に血を滴らして、破簾(やれみす)よりも顔の青い、女を宙に啣(くわ)えた絵の、無慙(むざん)さが眼(まなこ)を射る。
二
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
と嗾(そそ)る。……
が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上(もみあ)げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散(まきち)らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴(はおりはかま)が一人、真中(まんなか)に、白襟、空色|紋着(もんつき)の、廂髪(ひさしがみ)で痩(や)せこけた女が一人|交(まじ)って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言(ものい)わず。
ただ、時々……
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然(もくねん)として澄まし返る。
容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣(おもむき)。※(もが)き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕(あらわ)れて、裡(うち)の面白さが思遣(おもいや)られる。
うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。
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