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風と光と二十の私と - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

  • ★2枚★ 昭和23年 24年 昭和二十三年 二十四年 1円
  • 横田順弥 百年前の二十世紀―明治・大正の未来予測
  • 明治・大正の未来予測「百年前の二十世紀」横田順彌 筑摩書房
  • ★☆眉村卓『二十四時間の侵入者』☆★◎秋元文庫版◎
  • 中野重治全集 第二十一巻★藝術家の立場・近代日本文学史考・文
  • 素顔のカラヤン二十年後の再会 眞鍋圭子★小澤征爾ベルリン交響
  • 希少!石原さとみ写真集 二十歳、夏 初版 美品
  • ■中古 鳩5銭錫貨 昭和二十一年製
  • 少年探偵 怪人二十面相 江戸川乱歩 S48 ポプラ社D69
  • 一圓/1円【銀貨】大日本 明治二十四年 コイン卸価格コレクション
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 私は放校されたり、落第したり、中学卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤(もっと)も別に大学入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである。
 私は性来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボった。教科書などは学校の机の中へ入れたまま、手ぶらで通学して休んでいたので、休んで映画を見るとか、そんなわけではない。故郷中学では浜の砂丘松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていただけで、別段、小説などを読んでいたわけでもない。全然ムダなことをしていたので、これは私の生涯の宿命だ。田舎中学を追いだされて、東京不良少年の集る中学入学して、そこでも私が欠席筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司(ぞうし)ヶ|谷(や)の墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一|段歩(たんぶ)ほどの草原でねころんでいた。私がここにねころんでいるのはいつものことで、学校をサボる私の仲間はここへ私を探しにきたものだ。Sというそのころ有名ボクサー同級生で、学校を休んで拳闘のグラブをもってやってきて、この草原拳闘練習をしたこともあるが、私は当時から胃が弱くて、胃をやられると一ぺんにノビてしまうので、拳闘はやらなかった。この草原の木の陰は湿地で蛇が多いのでボクサーは蛇をつかまえて売るのだと云って持ち帰ったが、あるとき彼の家へ遊びに行ったら、机のヒキダシへ蛇を飼っていた。ある日、囚人墓地ボクサーが蛇を見つけ、飛びかかってシッポをつかんでぶら下げた。ぶら下げたとたんに蝮(まむし)と気がついて、彼は急に恐怖のために殺気立って狂ったような真剣さで蛇をクルクルふりまわし始めたが、五分間も唸(うな)り声ひとつ立てずにふり廻していたものだ。それから蛇を大地叩きつけて、頭をふみつぶしたが、冗談じゃないぜ、蝮にかまれて囚人墓地でオダブツなんて笑い話にもならねえ、と呟(つぶや)きながらこくめいに頭を踏みつぶしていたのを妙に今もはっきり覚えている。
 私はこの男にたのまれて飜訳をやったことがある。この男は中学時代から諸方の雑誌ボクシング雑文を書いていたが、私にボクシング小説の飜訳をさせて「新青年」へのせた。「人心|収攬(しゅうらん)術」というので、これは私の訳したものなのである。原稿料は一枚三円でお前に半分やると云っていたが、その後言を左右にして私に一文もくれなかった。私が後日物を書いて原稿料を貰うようになっても、一流の雑誌でも二円とかせいぜい二円五十銭で、私が三円の稿料を貰ったのは文筆生活十五年ぐらいの後のことであった。純文学というものの稼ぎは中学生駄文の飜訳に遠く及ばないのである。
 私はこの不良少年中学入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。
 凡(およ)そ学校の規律に服すことのできない不良中学生小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。
 今新潟弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ。
 私の学校地区に、伴氏友人藤田という、両手の指が各々三本ずつという畸形児で鯰(なまず)ばかり書いている風変りな日本画家がいる。一風変った境地をもっているから一度訪ねてごらんなさい、と紹介状をくれたので、訪ねてみたことがある。今日はただ挨拶にきただけだ、いずれゆっくり来るからと私が言うのに、いや、そんなことを云わずに、サイダーがあるから、ぜひ上れという。無理にすすめるので、それでは、と私が上ると、奥さんをよんで、オイ、サイダーを買ってこい、と言うので、これには面喰ったものだ。

       ★

 私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原(えばら)郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸(きゅう)だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでるあたりがどうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた。
 私は五年生を受持ったが、これが分校最上級生で、男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校押しつけていたのではないかと思う。七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名自分名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。このてあいは教室の中で喧嘩(けんか)ばかりしており、兵隊軍歌を唄って外を通ると、授業中に窓からとびだして見物に行くのがある。この子供は兇暴で、異常児だ。アサリムキミ屋の子供だが、コレラが流行してアサリが売れなくなったとき、俺のアサリがコレラでたまるけえ、とアサリをくって一家中コレラになり、子供学校へくる道で米汁のような白いものを吐きだした。尤もみんな生命は助かったようである。
 本当に可愛い子供は悪い子供の中にいる。


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