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風狂私語 - 辻 潤 ( つじ じゅん )

  • 野坂昭如エッセイ集4冊セット 日本土人の思想 風狂の思想 他
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自分風狂人の一種だ。俳人なら惟然坊のような人間だ。ただ俳句がつくれないばかりだ。嘘のような話だが殆どつくったことがない。俳句ばかりか短歌もつくったことがない。どうもこんなことをいっても人は信用してくれないと思うが、自分ながら不思議だと考えている。
西谷がしきりと俳句をつくれといってすすめてくれる。昔、川崎にいた時分佐藤惣之助からもすすめられたことがある。「君が俳句をつくらないのはどうもおかしい」と彼がいうのである。だがやっぱりつくらなかった。今にひとりでにつくれるようになるかも知れない。
人間に「耳」の性と「眼」の性とがある。音楽家画家とがその代表者だ。自分はつまり、「耳」の性だ。ただ音楽家でないばかりである。まれに両方兼備している天才もある。
文学者芸術家としてみる時は一番不純である。音楽や画は表現ミディアムが限られているが、言葉になるとその数が殆ど無限であるから、ちょっと見当がつかぬ。
詩人小説家戯曲家――しかし、これは一見ハッキリしているようだが一向ハッキリはしていない。「詩」は一番芸術的だ。言葉芸術家詩人のみである。ところで、詩を作る人必ずしも「詩人」ではない。小説書く人必ずしも小説家ではない。形態はしばしば人を欺く。シェークスピアイプセン立派詩人である。エマーソンは哲人であり、詩人である。彼の論文には散文詩として見る方が妥当な場合がしばしばある。
人間の独自な「霊魂」が表現されてこそ詩であり、芸術である。
俳句は最も短い形式をかりて表現された「詩」である。「詩」以外のなにものでもない。
▼「耳」の性は「主観的」であり、「眼」の性は「客観的」である。すぐれた芸術家は両方を兼備する。ゲーテ。
自分はひどく「耳」の方だ。だから人一倍主観的である。一茶俳句がすきである。つまりわかるのである。蕪村はよくわからないのである。物の形体がハッキリ入ってこない。だから描写することが出来ない。出来るのは心理描写位なものだ。
自分服装はもちろんのこと、他人の服装に対しても全然無頓着だ。樹や草や花の名前がとんとわからん。つまり覚えようとしないのだ。しかし、まさか桜と梅と松と杉とを混同はしない。だが、松をスギといっても、杉をマツと呼んでもどっちでもかまわないと思っている。しかし、人間は物を命名するに決してデタラメではない。スギといえばなんとなくマッスグなようなかんじがする。しかしマツといえば必ずしも曲がったかんじはしない。
自分未だにゼニの勘定がよくわからん。


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