食指談 関連リンク

佐藤 垢石 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

食指談 - 佐藤 垢石 ( さとう こうせき )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
次のページ
  一  蕎麥は、春蕎麥よりも秋蕎麥の方が、味香共に豊かであると昔からいわれているが、その理屈はともかくとして、このほど上州赤城の中腹室沢の金子豊君から贈って貰った秋蕎麥は、近年まれにおいしかった。老妻が麺棒を握って額から汗を流している間に、私は疎開のとき東京から持ってきた霞網を麥田と菜畑との間に張って雀数羽を獲り、これを汁のなかへ入れて雀蕎麥を作ったところ、これが甚だ珍味であったのである。折柄、屋敷の隅の老梅の根方に、蕗(ふき)の苔(とう)が小さい頭をだしていたので、これをつまんで薬味として加えたところ、鼻の奥に涼香漂い舌端に爽烈の気を呼んで、思いがけなく心に佳饌の趣を催したのであった。
 しかしながら、上州の蕎麥の味は、信州の蕎麥には及ばぬと思う。就中(なかんづく)、富士見高原の蕎麥を絶讃したい。
 富士見でも、高原療養所の小使が打った蕎麥が素敵である。釣友正木不如丘博士が療養所の院長であるが、富士見に香味優れた蕎麥と、蕎麥打ちの名手を小使として抱えていることが、院長の日ごろの自慢であるのである。数年前の盛夏諏訪の霧ヶ峯へ博士の先導で友人数名と共に登ったことがある。そのときも博士は、山巓(さんてん)の草原まで小使手打ちの自慢の蕎麥切りを運ばせてきて、青空の下に嗜遊の宴を振舞った。よくもまあ、かくも細く長く切れたものであると思うほど、蕎麥は気品高く切れてある。つなぎの種は、山芋であるか鶏卵であるか語らなかったけれど、小使さんの腕はたしかに自慢するだけのことはある。
 その後、蕎麥が食べたくなるたびに、信州富士見まで出かけて行くのは骨が折れるといったところ、博士はしからば東京まで持ってこようという。早春のころ博士は、小使に打たせた蕎麥を、その小使に背負わせて運んできた。これを、麻布のさる料亭へ持ち込んで食べることにしたのであるが、蕎麥はゆで加減が身上であるから、料亭板場に委せられない。そこで、わざわざ小使を信州から連れてきた次第であるという説明をききながら、私らは食った食った。
 私は、親椀に八、九杯は胃の腑へ流し込んだであろう。だが、私の胃袋面積人間並みであるから馬や牛のようにはいけなかった。ところで驚いたのは、將棋木村義雄名人である。いつまでも、食べやまない。結局一人で揚笊(あげざる)に山に盛った蕎麥切りを平らげてしまった。この量は私が食べた十倍はあるであろう。一体、腹のどこへ入るのか、胃袋の雑作はどんな風にできているのか、同座の連中名人の豪啖に悉くあきれてしまった。
 漫画麻生豊画伯が、貴公どんな具合か腹を見せないかというと、名人は胸を開いた。一同これをのぞき込んだが、別段大してふくれてもいない。いまの一笊はどこへ入っているのであろうと思う。
 博士が、まだ一笊料理場の方にある筈だから、もう少しどうかな、とからかうと、
「もはや、叶わぬ」
 と、呟いて、名人は横に手を振った。
 文化十四年二月十三日に、江戸両国柳橋に、大食競演会というのが開かれたことがある。これへ出席した選手桐屋五左衛門というのは、蕎麥五十七杯を食ったあとで、三合入りの盞で酒二十七盃をのんでから、めし三杯に茶九杯を喫し、さらに甚句を唄って躍りだしたという剛の者であった。次に、天保二年九月七日やはり柳橋万八樓で催し大食会では、市ヶ谷大原町木具職遠州屋甚七というのが、十六文盛りの蕎麥四十二杯を平らげ、御船方の国安力之助が三十六杯、浅草神主板垣平馬が、同じく三十五杯。
 十六文盛りの蕎麥というのが、どのくらいの量であるか分からないが、わが木村名人文化天保のころの仁であったならば、この競技会へ自信たっぷり出場する力量があったにちがいない。

  二

 文化大食会のときには、丸屋助兵衛というのが饅頭五十羊羹七竿、薄皮餅三十、茶十九杯をあおってナンバーワンとなり、次席が三升入りの大盃に酒六盃半をのみ、続いて水十七杯をあおった鯉屋利兵衛、めし五十四杯を掻っ込み、醤油二合をすすった泉屋吉蔵という順序で見物人の胆を奪ったのである。めしの十五杯や二十杯、酒の三升や五升をのんだのは、ものの数ではなかったのであろう。
 天保の、万八樓の会は壮観であった。入口に受付の帳場を設え、来会者を次から次へ住所氏名年齢職業記入する。来会者百六十二人、受付の次の間には羽織袴をつけた接待役が十人、客を待ち受けている。なかなかの配慮である。
 選手が受付を通過してくると、まず予選として膳に向かわせ、飯の高盛り十五杯と汁五杯を勧める。米は肥後の上白、味噌岡崎八丁味噌、出しは北国昆布、椀は一合五勺はたっぷり入る大ものだが、選手として自らを任じて集まった勇猛の人々であるから、これしきの風景では胆を冷やすような仁は一人もいない。しからばご免、と挨拶して競って箸をとり、椀の尻を握り、食うは食うはぺろりと食って予選通過は易々たるもの、落伍者極めて少数であったという。
 さて、選手達は本会場へ入ってみて、そのものものしさに驚いた。大広間である会場には目付方が三人控え四方に眼をくばり、算盤を手にした計算方が三人、三人の記録方は机を前にして粛として座す。やがて席次が定まって丸く座についた百数十人の選手、臍下丹田に力を入れて、ぱくつきはじめた。咽を鳴らす音、めしをかむ歯の響き、汁を吸う舌打ち、がぶがぶ呷(あお)る大盃に吐くため息。しばしがほどは、銀座街頭の跫音雑声よりも喧(かま)びすしい。
 かくて激戦の末、後世まで名を遺した記録保持者は二十四、五人の多きを数えたのである。出羽新座主殿の家来田村彦之助は、四文揚げ天麩羅(てんぷら)三百四十を食った。永井肥前守の家来辻貞叔は大福餅三百二十を平らげ、江戸堀江町の家主清水兵衛は鰻七貫目分の蒲焼きと飯五人前をぺろりとやってのけた。雷権太夫弟子である玉嵐龍太郎は酒二升に飯二十杯、汁十八杯を片づけてけろり。神田三河町呉服屋の小松屋宗七は、十六文盛りの汁粉三十二杯。一樽三百箇入り梅干二樽を食って、すっぱい顔しなかったのは深川霊岸寺前の石屋京屋多七。


次のページ

佐藤 垢石 (さとう こうせき) 以外のオススメ作品

食指談 (しょくしだん) のリンク元

「食指談-佐藤 垢石」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN