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食魔 - 岡本 かの子 ( おかもと かのこ )

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  • 鮨 岡本かの子 初版 戦前 文学 小説 昭和16年
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  • 0805 日本の文学46 宇野千代・岡本かの子 昭和44年4月初版
  • 佐藤春夫 『掬水譚』 岡本かの子宛署名本 谷崎潤一郎
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 菊萵苣(きくぢさ)と和名はついているが、原名のアンディーヴと呼ぶ方が食通の間には通りがよいようである。その蔬菜(そさい)が姉娘のお千代の手で水洗いされ笊(ざる)で水を切って部屋のまん中の台俎板(だいまないた)の上に置かれた。
 素人の家にしては道具万端整っている料理部屋である。ただ少し手狭なようだ。
 若い料理教師の鼈四郎(べつしろう)は椅子(いす)に踏み反り返り煙草(たばこ)の手を止めて戸外の物音を聞き澄ましている。外では初冬の風が町の雑音を吹き靡(なび)けている。それは都会の木枯しとでもいえそうな賑(にぎや)かで寂しい音だ。
 妹娘のお絹はこどものように、姉のあとについて一々、姉のすることを覗(のぞ)いて来たが、今は台俎板の傍に立って笊の中の蔬菜を見入る。蔬菜は小柄で、ちょうど白菜中指の丈けあまりに縮めた形である。しかし胴の肥(ふと)り方の可憐(かれん)で、貴重品の感じがするところは、譬(たと)えば蕗(ふき)の薹(とう)といったような、草の芽株に属するたちの品かともおもえる。
 笊の目から※(した)った蔬菜の雫(しずく)が、まだ新しい台俎板の面に濡木(ぬれぎ)の肌の地図を浸み拡(ひろ)げて行く勢いも鈍って来た。その間に、棚や、戸棚や抽出(ひきだ)しから、調理に使いそうな道具と、薬味容(やくみい)れを、おずおず運び出しては台俎板の上に並べていたお千代は、並び終えても動かない料理教師の姿に少し不安になった。自分よりは教師に容易く口の利ける妹に、用意万端整ったことを教師に告げよと、目まぜをする。妹は知らん顔をしている。
 若い料理教師は、煙草の喫(す)い殻を屑籠(くずかご)の中に投げ込み立上って来た。じろりと台俎板の上を見亙(みわた)す。これはいらんという道具を二三品、抽(ぬ)き出して台俎板の向う側へ黙って抛(ほう)り出した。
 それから、笊の蔬菜白磁の鉢の中に移した。わざと肩肘(かたひじ)を張るのではないかと思えるほどの横柄な所作は、また荒っぽく無雑作に見えた。教師は左の手で一つの匙(さじ)を、鉢の蔬菜の上へ控えた。塩と胡椒(こしょう)と辛子(からし)を入れる。酢を入れる。そうしてから右の手で取上げたフォークの尖(さき)で匙の酢を掻(か)き混ぜる段になると、急に神経質な様子を見せた。狭い匙の中でフォークの尖はミシン機械のように動く。それは卑劣と思えるほど小器用で脇(わき)の下がこそばゆくなる。酢の面に縮緬皺(ちりめんじわ)のようなさざなみか果てしもなく立つ。
 妹娘のお絹は彼の矛盾にくすりと笑った。鼈四郎は手の働きは止めず眼だけ横眼にじろりと睨(にら)んだ。
 姉娘の方が肝が冷えた。
 匙の酢は鉢の蔬菜の上へ万遍(まんべん)なく撒(ま)き注がれた。
 若い料理教師は、再び鉢の上へ銀の匙を横へ、今度はオレフ油を罎(びん)から注いだ。
「酢の一に対して、油は三の割合
 厳かな宣告のようにこういい放ち、匙で三杯、オレフ油を蔬菜の上に撒き注ぐときには、教師は再び横柄で、無雑作で、冷淡な態度を採上げていた。
 およそ和(あ)えものの和え方は、女の化粧と同じで、できるだけ生地(きじ)の新鮮味を損(そこな)わないようにしなければならぬ。掻き交ぜ過ぎた和えものはお白粉(しろい)を塗りたくった顔と同じで気韻(きいん)は生動しない。
「揚ものの衣の粉の掻き交ぜ方だって同じことだ」
 こんな意味のことを喋(しゃべ)った鼈四郎は、自分のいったことを立証するように、鉢の中の蔬菜を大ざっぱに掻き交ぜた。それでいて蔬菜が底の方からむらなく攪乱(かくらん)されるさまはやはり手馴(てな)れの技倆(ぎりょう)らしかった。
 アンディーヴの戻茎の群れ白磁の鉢の中に在って油の照りが行亙り、硝子越(ガラスご)しの日ざしを鋭く撥(は)ね上げた。
 蔬菜浅黄いろを眼に染(し)ませるように香辛入りの酢が匂(にお)う。それは初冬ながら、もはや早春が訪れでもしたような爽(さわや)かさであった。
 鼈四郎は今度は匙をナイフに換えて、蔬菜群れを鉢の中のまま、ざっと截(き)り捌(さば)いた。程のよろしき部分の截片を覗(うかが)ってフォークでぐざと刺し取り、
「食って見給え」
 と姉娘の前へ突き出した。その態度は物の味の試しを勧めるというより芝居でしれ者が脅(おど)しに突出す白刃に似ていた。
 お千代はおどおどしてしまって胸をあとへ引き、妹へ譲り加減に妹の方へ顔をそ向けた。
「おや。――じゃ。さあ」
 鼈四郎はフォークを妹娘の胸さきへ移した。
 お絹は滑らかな頸(くび)の奥で、喉頭(こうとう)をこくりと動かした。煙るような長い睫(まつげ)の間から瞳(ひとみ)を凝らしてフォークに眼を遣(や)り、瞳の焦点が截片に中(あた)ると同時に、小丸い指尖(ゆびさき)を出してアンディーヴを撮(つま)み取った。お絹の小隆い鼻の、種子(たね)の形をした鼻の穴が食慾で拡がった。
 アンディーヴの截片はお絹の口の中で慎重に噛(か)み砕かれた。


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