駆落 - リルケ ライネル・マリア ( )
DIE FLUCHT
ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke
森林太郎訳
寺院は全く空虚である。
贄卓(にへづくゑ)の上の色硝子(いろガラス)の窓から差し入る夕日が、昔の画家が童貞女の御告(おつげ)の画にかくやうに、幅広く素直に中堂に落ちて、階段に敷いてある、色の褪めた絨緞を彩つてゐる。それからバロツク式の木の柱の立つてゐる、レクトリウムを通つて、その奥の方に行くと、段々暗くなつて、そこには煤(すゝ)けた聖者の像の前に点(とも)してある、小さい常燈明が、さも意味ありげに瞬(またゝき)をしてゐる。それから一番奥の粗末な石の柱の向うは真の闇になつてゐる。
そこに二人は坐つてゐる。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着てゐる薄い茶色のジヤケツを、分厚に出来た、黒い※(かし)の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるやうにして坐つてゐる。娘の被つてゐる帽子の薔薇の花が、腰を掛けてゐるベンチの背中の木彫の天使の腮(あご)をくすぐると見えて、天使は微笑(ほゝゑ)んでゐる。
フリツツといふ高等学校生徒は、地の悪くなつた手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握つてゐるやうに、柔かに、しかもしつかり握つてゐる。
フリツツは好い心持に、現(うつゝ)の夢を見てゐる。大方今に己達のゐるのを知らずに、寺院の戸を締めるだらう。さうしたら己達は二人切りになるだらう。夜になつたら化物が出て来さうだなどと思つてゐるのである。
二人はぴつたり身を寄せ合つた。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでせうか。」
かういふと同時に、二人はいづれも悲しい事を思ひ出した。娘の思ひ出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしてゐる窓の下の座である。そこからは厭な、黒い石垣が見えてゐて、日の当る事がない。少年の思ひ出したのは自分の為事(しごと)をする机である。その上にはラテン文の筆記帖が一ぱい載せてある。丁度広げてある一冊の中には |PLATON, SYMPOSION(プラトオン、ジンポジオン) と書いてある。二人の目は意味もなく前の方を見てゐる。その視線は丁度ベンチの木理(もくめ)の上を這つてゐる一疋の蠅の跡を追つてゐるのである。
二人は目を見合せた。
アンナは溜息を衝いた。
フリツツはそつと保護するやうに、臂を娘の背に廻して抱いて云つた。「逃げられると好いのだがね。」
アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫いてゐるあこがれに気が付いた。
娘が伏目になつて顔を赤くしてゐると、少年が囁いた。
「一体内の奴は皆気に食はないのですよ。どこまでも気に食はないのですよ。僕があなたの所から帰る度に、皆がどんな顔をして僕を見(みる)と思ひます。どいつもこいつも僕を疑つて、僕の困るのを嬉しがつてゐるのです。僕だつてもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一しよにどこか遠い所へ逃げて行きませうね。意地ですから。」
「あなた本当にわたくしを愛して入らつしやつて。」かう云つて娘は返事を待つてゐる。
「なんともかとも言ひやうのない程愛してゐます。」かう云つて少年は、何か言ひさうにしてゐる娘の唇にキスをした。
「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さると仰(おつし)やるのは、いつ頃でせうか」と、娘はたゆたひながら尋ねた。
少年は黙つてゐる。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿つて、その上の方に掛つてゐる古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免し給へ」云々と書いてある。
それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か気取(けど)つてゐるのですか。」
娘が黙つてゐるので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
娘は黙つて徐(しづ)かに頷(うなづ)いた。
そこに二人は坐つてゐる。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着てゐる薄い茶色のジヤケツを、分厚に出来た、黒い※(かし)の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるやうにして坐つてゐる。娘の被つてゐる帽子の薔薇の花が、腰を掛けてゐるベンチの背中の木彫の天使の腮(あご)をくすぐると見えて、天使は微笑(ほゝゑ)んでゐる。
フリツツといふ高等学校生徒は、地の悪くなつた手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握つてゐるやうに、柔かに、しかもしつかり握つてゐる。
フリツツは好い心持に、現(うつゝ)の夢を見てゐる。大方今に己達のゐるのを知らずに、寺院の戸を締めるだらう。さうしたら己達は二人切りになるだらう。夜になつたら化物が出て来さうだなどと思つてゐるのである。
二人はぴつたり身を寄せ合つた。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでせうか。」
かういふと同時に、二人はいづれも悲しい事を思ひ出した。娘の思ひ出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしてゐる窓の下の座である。そこからは厭な、黒い石垣が見えてゐて、日の当る事がない。少年の思ひ出したのは自分の為事(しごと)をする机である。その上にはラテン文の筆記帖が一ぱい載せてある。丁度広げてある一冊の中には |PLATON, SYMPOSION(プラトオン、ジンポジオン) と書いてある。二人の目は意味もなく前の方を見てゐる。その視線は丁度ベンチの木理(もくめ)の上を這つてゐる一疋の蠅の跡を追つてゐるのである。
二人は目を見合せた。
アンナは溜息を衝いた。
フリツツはそつと保護するやうに、臂を娘の背に廻して抱いて云つた。「逃げられると好いのだがね。」
アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫いてゐるあこがれに気が付いた。
娘が伏目になつて顔を赤くしてゐると、少年が囁いた。
「一体内の奴は皆気に食はないのですよ。どこまでも気に食はないのですよ。僕があなたの所から帰る度に、皆がどんな顔をして僕を見(みる)と思ひます。どいつもこいつも僕を疑つて、僕の困るのを嬉しがつてゐるのです。僕だつてもう子供ではありません。けふでもあしたでも、少し収入があるやうになりさへすれば、あなたと一しよにどこか遠い所へ逃げて行きませうね。意地ですから。」
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「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さると仰(おつし)やるのは、いつ頃でせうか」と、娘はたゆたひながら尋ねた。
少年は黙つてゐる。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿つて、その上の方に掛つてゐる古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免し給へ」云々と書いてある。
それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か気取(けど)つてゐるのですか。」
娘が黙つてゐるので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
娘は黙つて徐(しづ)かに頷(うなづ)いた。
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駆落 (かけおち) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%B3
- http://atpedia.jp/word/MARI
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%8f%ac%90%e0+%8b%ec%97%8e&sid=00
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%8f%ac%90%e0+%93V%8eg+%82c%82%89%82%93&sid=00
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=3&key=%83A%83%8b%83V%83F%83%8a+%8f%ac%90%e0&fid=5
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=4&key=%8b%ec%82%af%97%8e%82%bf++%8f%ac%90%e0&fid=5
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