鬼涙村 - 牧野 信一 ( まきの しんいち )
一
鵙の声が鋭く気たゝましい。万豊の栗林からだが、まるで直ぐの窓上の空でゞもあるかのやうにちかぢかと澄んで耳を突く。けふは晴れるかとつぶやきながら、私は窓をあけて見た。窓の下は未だ朝霧が立ちこめてゐたが、芋畑の向方側にあたる栗林の上にはもう水々しい光が射して、栗拾に駈けてゆく子供たちの影があざやかだつた。そして、見る見るうちに光の翼は広い畑を越えて窓下に達しさうだつた。芋の収穫はもう余程前に済んで畑は一面に灰色の沼の観で光りが流れるに従つて白い煙が揺れた。万豊は其処で小屋掛の芝居を打ちたいはらだが、青年団からの申込みで来るべき音頭小唄大会の会場にと希望されて不性無精にふくれてゐるさうだつた。
私と同居の御面師は、とつくに天気を見定めて下彫の面型を鶏小屋の屋根にならべてゐた。私は鋸屑を膠で練つてゐたのだ。万豊の桐畑から仕入れた材料は、ズイドウ虫や瘤穴の痕が夥しくて、下彫の穴埋に余程の手間がかゝつた。御面師は山向ふの村へ仕入れに行くと、つい不覚の酒に参つて日帰りもかなはなかつたから、寄所(よんどころ)なく万豊の桐で辛棒しようとするのだが、斯う穴やふし瘤だらけでは無駄骨が折れるばかりで手間が三倍だと滾しぬいた。此後はもう決して酒には見向かずにと彼は私に指切したが、急に仕事の方が忙しくて材料の吟味に山を越える閑もなかつた。万豊は下駄材の半端物を譲つた。値段を訊くとその都度は、まあ/\と応揚さうにわらつてゐながら、仕事の集金を自ら引受け、日当とも材料代ともつけずに収入の半分をとつてしまふと、御面師は愚痴を滾した。万豊は凡てにハツキリしたことを口にするのが嫌ひで、ひとりで歩いてゐる時も何が可笑しいのか何時もわらつてゐるやうな表情だつた。では元々さういふ温顔なのかと想ふと大違ひで、邸の垣根を越える子供等を追つて飛出して来る時の姿は全くの狼で、普段はレウマチスだと称して道普請や橋の掛換工事を欠席してゐるにも係はらず、垣も溝も三段構へで宙を飛んだ。
そのうちにも、さつきの子供たちがばら/\と垣根をくゞり出て芋畑を八方に逃げ出して来たかと見ると、おいてゆけ/\野郎共、たしかに顔は知れてるぞなどと叫びながら、何方を追つて好いのやらと途惑ふた万豊が八方に向つて夢中で虚空を掴みながら暴れ出た。万豊の栗拾にゆくには面をもつて行くに限ると子供たちが相談してゐたが、なるほど逃げてゆく彼等は忽ち面をかむつてあちこちから万豊を冷笑した。鬼、ひよつとこ、狐、天狗、将軍達が、面をかむつてゐなくても鬼の面と化した大鬼を、遠巻にして、一方を追へば一方から石を投げして、やがて芋畑は世にも奇妙な戦場と化した。
「やあ、面白いぞ/\。」
私は重い眼蓋をあげて思はず手を叩いた。私の胸はいつも異様な酒の酔で陶然としてゐる見たいだつたから、そんな光景が一層不思議な夢のやうに映つた。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だつたので、それに私は当時胃下垂の症状で事実は一滴の酒も口にしなかつたにも関はらず、昼となく、夜となく一歩も外へは出ようとはせずに、面作りの手伝ひに没頭してゐるうちには、いつか間断もない酒の香りだけで泥酔するのが屡々だつた。かなふ仕儀なら喉を鳴して飛びつきたい WET 派のカラス天狗が、食慾不振のカラ腹を抱へて、十日二十日と沼のやうな大樽に揺れる勿体振つた泡立の音を聴き、ふつふつたる香りにばかり煽られてゐると酔つたとも酔はぬとも名状もなし難い、前世にでもいたゞいた唐天竺のおみきの酔が、いまごろになつて効いて来たかのやうな、まことに有り難いやうな、なさけないやうな、実にもとりとめのない自意識の喪失に襲はれた。眠いやうな頭から、酒に酔つた魂だけが面白さうに抜け出してふわりふわりとあちこちを飛びまはつてゐるのを眺めてゐるやうな心持だつた。そのうちには新酒の蓋あけのころともなつて秋の探さは刻々に胸底へ滲んだ。倉一杯に溢れる醇々たる酒の靄は、享ければあはや潸々として滴らんばかりの味覚に充ち澱んでゐた。――鶏小屋の傍らでは御面師が切りと両腕を拡げて腹一杯の深呼吸を繰返してゐた。彼も「酒の酔」を醒さうとして体操に余念がないのだ。――万豊が地団太を踏みながら引返してゆく後姿が栗林の中で斑らな光を浴びてゐた。線路の堤に、音鬼、赤鬼、天狗、狐、ひよつとこ、将軍などの矮人連が並んで勝鬨を挙げてゐた。――もともとそれらは私達がつくつた成人(おとな)用の御面なので、五体にくらべて顔ばかりが大変に不釣合なのが奇抜に映つた。音頭大会の日取は未だ決らないが、出場者の多くは面をかむらうといふことになつて、日々に註文が絶えなかつた。たとへこれが今や全国的の流行で踊りとなれば老若の別もないとは云ふものゝ、まさか素面では――とたぢろいて二のあしを踏む者も多かつたが、仮面をかむつて、――といふ智慧がつくと、われもわれもと勇み立つた。名誉職も分限者も教職員も自ら乗気になつて出演の決心をつけた。どんな歌詞かは知らぬが鬼涙(キナダ)音頭なる小唄も出来て「東京音頭」の節で歌はれるといふことであつた。
「面をかむつてゐれば、担がれるといふ騒ぎもなくなるだらう――やがては、あの永年の弊風が根を絶つことにでもなれば一挙両得ともなるではないか。」
一方では斯ういふ噂が高かつた。由来、このあたりでは村人の反感を買つた人物は屡々この「担がれる」なる名称の下に、世にも惨澹たるリンチに処せられた。
……「おい/\、ツル君、はやくあがつて来ないか。」
私は、いつまでも外気に顔を曝してゐることに「或る危惧」を覚えたので、未だ酔ひを醒してもゐなかつたのだが、御面師に声をかけた。それに干場の面型をかぞへて見ると辛うじて十二三の数で、あれがきのふまでの三日がかりの仕事では今夜あたりは徹宵でもしなければ追ひつくまいと心配した。私は、うしろの棚から鬼の赤、青、狐の胡粉、天狗の紅の壺などを取りおろし、塗刷毛で窓を叩きながらもう一遍呼ぶのだが、彼は振向きもしなかつた。
「聞えないのか――」
私は怒鳴つてから、さうだ口にしない約束だつた彼の名前を思はず呼んでしまつたと気づいた。彼は自分の姓名を非常に嫌ふといふ奇癖の持主で、うつかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になつて、あはや泣き出しさうに萎れるのであつた。
「厭だ/\/\、堪らない……」と彼は身震ひして両耳を掩つた。それ故彼は、滅多な事には人に自分の姓名を明したがらず、
「えゝ、もう私なんぞの名前なんてどうでもよろしいやうなもので……」と言葉巧みにごまかしたが、それは徒らな謙遜といふわけでもなく、実はそれが神経的に、そして更に迷信的に適はぬといふのであつた。それで私も久しい間彼の名前を知らなかつたし、また不図した機会から彼と知合になり、どうして生活までを共にするまでに至つたかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合には何時も私は人物の名前をも在りのまゝを用ひるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入してゐた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依つてはじめて知り、稍奇異な感もあつて、実名の頓着もなかつたまでなのだつたが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称ぶのだと知らされた。私はミヅナガレと読んだが、それはツルと訓むのださうだつた。
私と同居の御面師は、とつくに天気を見定めて下彫の面型を鶏小屋の屋根にならべてゐた。私は鋸屑を膠で練つてゐたのだ。万豊の桐畑から仕入れた材料は、ズイドウ虫や瘤穴の痕が夥しくて、下彫の穴埋に余程の手間がかゝつた。御面師は山向ふの村へ仕入れに行くと、つい不覚の酒に参つて日帰りもかなはなかつたから、寄所(よんどころ)なく万豊の桐で辛棒しようとするのだが、斯う穴やふし瘤だらけでは無駄骨が折れるばかりで手間が三倍だと滾しぬいた。此後はもう決して酒には見向かずにと彼は私に指切したが、急に仕事の方が忙しくて材料の吟味に山を越える閑もなかつた。万豊は下駄材の半端物を譲つた。値段を訊くとその都度は、まあ/\と応揚さうにわらつてゐながら、仕事の集金を自ら引受け、日当とも材料代ともつけずに収入の半分をとつてしまふと、御面師は愚痴を滾した。万豊は凡てにハツキリしたことを口にするのが嫌ひで、ひとりで歩いてゐる時も何が可笑しいのか何時もわらつてゐるやうな表情だつた。では元々さういふ温顔なのかと想ふと大違ひで、邸の垣根を越える子供等を追つて飛出して来る時の姿は全くの狼で、普段はレウマチスだと称して道普請や橋の掛換工事を欠席してゐるにも係はらず、垣も溝も三段構へで宙を飛んだ。
そのうちにも、さつきの子供たちがばら/\と垣根をくゞり出て芋畑を八方に逃げ出して来たかと見ると、おいてゆけ/\野郎共、たしかに顔は知れてるぞなどと叫びながら、何方を追つて好いのやらと途惑ふた万豊が八方に向つて夢中で虚空を掴みながら暴れ出た。万豊の栗拾にゆくには面をもつて行くに限ると子供たちが相談してゐたが、なるほど逃げてゆく彼等は忽ち面をかむつてあちこちから万豊を冷笑した。鬼、ひよつとこ、狐、天狗、将軍達が、面をかむつてゐなくても鬼の面と化した大鬼を、遠巻にして、一方を追へば一方から石を投げして、やがて芋畑は世にも奇妙な戦場と化した。
「やあ、面白いぞ/\。」
私は重い眼蓋をあげて思はず手を叩いた。私の胸はいつも異様な酒の酔で陶然としてゐる見たいだつたから、そんな光景が一層不思議な夢のやうに映つた。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だつたので、それに私は当時胃下垂の症状で事実は一滴の酒も口にしなかつたにも関はらず、昼となく、夜となく一歩も外へは出ようとはせずに、面作りの手伝ひに没頭してゐるうちには、いつか間断もない酒の香りだけで泥酔するのが屡々だつた。かなふ仕儀なら喉を鳴して飛びつきたい WET 派のカラス天狗が、食慾不振のカラ腹を抱へて、十日二十日と沼のやうな大樽に揺れる勿体振つた泡立の音を聴き、ふつふつたる香りにばかり煽られてゐると酔つたとも酔はぬとも名状もなし難い、前世にでもいたゞいた唐天竺のおみきの酔が、いまごろになつて効いて来たかのやうな、まことに有り難いやうな、なさけないやうな、実にもとりとめのない自意識の喪失に襲はれた。眠いやうな頭から、酒に酔つた魂だけが面白さうに抜け出してふわりふわりとあちこちを飛びまはつてゐるのを眺めてゐるやうな心持だつた。そのうちには新酒の蓋あけのころともなつて秋の探さは刻々に胸底へ滲んだ。倉一杯に溢れる醇々たる酒の靄は、享ければあはや潸々として滴らんばかりの味覚に充ち澱んでゐた。――鶏小屋の傍らでは御面師が切りと両腕を拡げて腹一杯の深呼吸を繰返してゐた。彼も「酒の酔」を醒さうとして体操に余念がないのだ。――万豊が地団太を踏みながら引返してゆく後姿が栗林の中で斑らな光を浴びてゐた。線路の堤に、音鬼、赤鬼、天狗、狐、ひよつとこ、将軍などの矮人連が並んで勝鬨を挙げてゐた。――もともとそれらは私達がつくつた成人(おとな)用の御面なので、五体にくらべて顔ばかりが大変に不釣合なのが奇抜に映つた。音頭大会の日取は未だ決らないが、出場者の多くは面をかむらうといふことになつて、日々に註文が絶えなかつた。たとへこれが今や全国的の流行で踊りとなれば老若の別もないとは云ふものゝ、まさか素面では――とたぢろいて二のあしを踏む者も多かつたが、仮面をかむつて、――といふ智慧がつくと、われもわれもと勇み立つた。名誉職も分限者も教職員も自ら乗気になつて出演の決心をつけた。どんな歌詞かは知らぬが鬼涙(キナダ)音頭なる小唄も出来て「東京音頭」の節で歌はれるといふことであつた。
「面をかむつてゐれば、担がれるといふ騒ぎもなくなるだらう――やがては、あの永年の弊風が根を絶つことにでもなれば一挙両得ともなるではないか。」
一方では斯ういふ噂が高かつた。由来、このあたりでは村人の反感を買つた人物は屡々この「担がれる」なる名称の下に、世にも惨澹たるリンチに処せられた。
……「おい/\、ツル君、はやくあがつて来ないか。」
私は、いつまでも外気に顔を曝してゐることに「或る危惧」を覚えたので、未だ酔ひを醒してもゐなかつたのだが、御面師に声をかけた。それに干場の面型をかぞへて見ると辛うじて十二三の数で、あれがきのふまでの三日がかりの仕事では今夜あたりは徹宵でもしなければ追ひつくまいと心配した。私は、うしろの棚から鬼の赤、青、狐の胡粉、天狗の紅の壺などを取りおろし、塗刷毛で窓を叩きながらもう一遍呼ぶのだが、彼は振向きもしなかつた。
「聞えないのか――」
私は怒鳴つてから、さうだ口にしない約束だつた彼の名前を思はず呼んでしまつたと気づいた。彼は自分の姓名を非常に嫌ふといふ奇癖の持主で、うつかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になつて、あはや泣き出しさうに萎れるのであつた。
「厭だ/\/\、堪らない……」と彼は身震ひして両耳を掩つた。それ故彼は、滅多な事には人に自分の姓名を明したがらず、
「えゝ、もう私なんぞの名前なんてどうでもよろしいやうなもので……」と言葉巧みにごまかしたが、それは徒らな謙遜といふわけでもなく、実はそれが神経的に、そして更に迷信的に適はぬといふのであつた。それで私も久しい間彼の名前を知らなかつたし、また不図した機会から彼と知合になり、どうして生活までを共にするまでに至つたかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合には何時も私は人物の名前をも在りのまゝを用ひるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入してゐた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依つてはじめて知り、稍奇異な感もあつて、実名の頓着もなかつたまでなのだつたが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称ぶのだと知らされた。私はミヅナガレと読んだが、それはツルと訓むのださうだつた。
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