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魚の序文 - 林 芙美子 ( はやし ふみこ )

  • 【林芙美子】林芙美子 集英社刊 日本文学全集48 
  • 林芙美子『林芙美子傑作集』新潮文庫
  • 林芙美子 ちくま日本文学全集 文庫版
  • 文庫★絵本猿飛佐助★林芙美子
  • 昭和12年『林芙美子選集/人生賦』初版*装丁:中川一政
  • ★「稲妻」林芙美子 昭21初版 飛鳥書店★
  • 林芙美子傑作集 新潮文庫 昭和27年発行 11作品
  • 今川英子★林芙美子 巴里の恋 巴里の小遣ひ帳 1932年の日記 初版
  • 林芙美子☆日本文学全集☆放浪記,牡蠣,浮雲☆集英社☆即決
  • 日本文学全集48 【林芙美子集】
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 それだからと云(い)って、僕(ぼく)は彼女(かのじょ)をこましゃくれた女だとは思いたくなかった。  結婚(けっこん)して何日目かに「いったい、君の年はいくつなの」と訊(き)いてみて愕(おどろ)いた事であったが、二十三|歳(さい)だと云うのに、まだ肩上(かたあ)げをした長閑(のどか)なところがあった。
 ――その頃(ころ)、僕|達(たち)は郊外(こうがい)の墓場の裏に居を定めていたので、初めの程は二人共|妙(みょう)に森閑(しんかん)とした気持ちになって、よく幽霊(ゆうれい)の夢(ゆめ)か何かを見たものだ。
「ねえ、墓場と云うものは案外美しいところなのね」
 朝。彼女は一|坪(つぼ)ばかりの台所関西風な芋粥(いもがゆ)をつくりながらこんな事を云った。
「結局、墓場墓場だけのものさ、別に君の云うほどそんなに美しくもないねえ」
「随分(ずいぶん)あなたは白々(しらじら)としたもの云いをする人だ……そんな事云わぬものだわ」
 こうして、背後から彼女台所姿を見ていると、鼠(ねずみ)のような気がしてならない。だが、彼女は素朴(そぼく)な心から時に、僕にこう云ううたをつくって見せる事があった。

帰ってみたら
誰(だれ)も居なかった
ひっそりした障子(しょうじ)を開けると
片脚(かたあし)の鶴(つる)が
一人くるくる舞(ま)っていた
坐(すわ)るところがないので
私も片脚の鶴と一緒(いっしょ)に
部屋(へや)の中を舞いながら遊ぶのだ。

「で、まだ君は心の中が寂(さび)しいとでも云うのかね」
 僕は心の中ではこの詩に感服していながら、ちょっとここのところがこざかしいと云えば云える腹立たしさで、彼女をジロリと睨(にら)んだ。
「ううん、墓の中の提灯(ちょうちん)を見ていたら、ふとこんな気持ちになったンですよ。……別に本当の事なンか出やしないわ。だって、こんなの、まるで河のほとりに立って何か唄(うた)っているようなの……ねえ、その気持ち判(わか)るでしょう」
「判らないねえ、僕はうたよみじゃないから……」
「そう、そうなの……」
 本当を云えば、初め、僕は彼女を愛しているのでも何でもなかったのだ。彼女だって、僕と一緒になるなんぞ夢にも思わなかったろうし、結婚の夜の彼女が、「済まないわ……」と一言|漏(もら)した言葉があった。どんな意味で云ったのか、僕だけの解釈では、僕以外の誰かに、済まなさを感じていたのであろう。――僕は彼女を知る前に、一人少女を愛していた。骨格が鋭(するど)く、眼(め)は三白眼(さんぱくがん)に近い。名は百合子(ゆりこ)と云った。歩く時は、いつも男の肩に寄り添(そ)っていなければ気が済まないらしく、それがこの少女の魅力(みりょく)でもあった。
「とうとうお菊(きく)さんと結婚なすったンですってね。三吉さんもなかなか隅(すみ)におけない」
 黄昏(たそがれ)の街の途上(とじょう)で会った時、百合子はチラと責めるように僕を視(み)てこう云ったが、歩きながら、例のように百合子は肩をさし寄せて、香料(こうりょう)の匂(にお)いを運んで来る。だが、おかしい事には再会するまでのあの切なさも、ふと行きずりにこうして並(なら)んでみると、夫婦(ふうふ)になってからもなお遠く離(はな)れて歩く菊子の方が、僕には変に新しい魅力となって来ているのに気がつくのであった。
 結婚して苔(こけ)に湧(わ)く水のような愛情を、僕達夫婦は言わず語らず感じあっていたのだが、それでもまだ、長い間の習慣は抜(ぬ)けきらないもので、金が一銭もなくなると、彼女はおかしな風呂敷包(ふろしきづつ)みをつくっては墓場の道を走って行く。で、僕はひょうげて、まるで下宿屋何かの女でも呼ぶように「お菊さアん」と窓から呼ぶのだ。すると、白く振(ふ)り返った彼女は、一生懸命(いっしょうけんめい)に笑った顔で、「お使いよオ」と答える。
「お使いなンかいいんだ。帰っておいでよ」
「だって、あンた苺(いちご)を食べたくないの? それを買いに行くの……」
 何か眼の中が熱くなって来て、墓場の上に紅(あか)い粒々(つぶつぶ)がパッと散って行くほど、僕は僕の不甲斐(ふがい)なさを彼女に見せつけられたようだ。で、僕はたまらなくなって素足のまま墓場の道へ走って出た。
馬鹿(ばか)! 俺(おれ)はそんなにしてまで苺なンぞを食いたかないンだよッ! お帰り、帰ったらいいだろう……」
 彼女風呂敷包みを、まるでアンパン何かのように子供らしく背後に隠(かく)して、しぶとく立っていた。そのしぶとさが余計胸の中に来ると、僕は彼女の髪(かみ)をひきつかんで、まるで、泥魚のように、地べたに引きずって帰って来た。
「君が、こんな一人合点(ひとりがてん)をするから、前の男達も君を殴(なぐ)ったのだろう。僕だって、小刀の一ツも投げたくなるよ。――炭俵(すみだわら)に入れられて、一日|揚板(あげいた)の下へ押(お)し込(こ)められた事があったッて君は云っていた事があったが、前の男の気持ちだって、何だか僕にはだんだん解(わか)って来たよ」
 彼女は涙(なみだ)もこぼさないでしおれていた。風呂敷の中からメリンスの鯨帯(くじらおび)と、結婚の時に着ていた胴抜(どうぬ)きの長襦袢(ながじゅばん)が出て来た。
「こんなもの置きに行ったって仕方がないじゃないかッ」
 ふと彼女を視(み)ると、僕の学生時代のモスの兵児帯(へこおび)を探し出して締(し)めているのだ。何だか擽(くすぐ)ったいものが身内を走ったが、僕は故意にシンケンな表情をかまえていた。
「君が腹の満ちた恰好(かっこう)で、一ツのものを夫に与(あた)えるのは、それア昔(むかし)の美談だよ。一ツしかなかったら、二ツに割って食べればいいだろう、何もなかったら、二人で飢(う)えるさ」
 これは、素敵にいい言葉であった。僕は僕自身のこの言葉にひどく英雄的(えいゆうてき)になったが、彼女には、それがどんなにか侘(わび)しく応(こた)えたのであろう。急に、まるで河童(かっぱ)の子のように眼のところまで両手を上げて、しくしく声をたてて泣き始めたのだ。
 この泣き方は実に面白い。まるで、閨(ねや)を共にする男へなんぞの色気(いろけ)は、大嵐(おおあらし)の中へ吹(ふ)き飛ばしたかのように、自分一人で涙を楽しんでいる風なのだ。子供のように、泣きながら泥(どろ)の上を引きずられて来た汚(よご)れた手で、足の裏を時々ガリガリやりながら思い出したようにシャックリをする。そのシャックリ語尾(ごび)はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は止(や)めた方がいいよ、判ったかね」
 僕は窓にぶらさがっている濡(ぬ)れタオルを彼女に取ってやって、一人(ひとり)窓の外の花の咲(さ)いた桐(きり)の梢(こずえ)を見上げた。
 実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの蟹(かに)の穴のような小さな家庭を培(つちか)って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに履歴書(りれきしょ)をまた書きたくなって、硯(すずり)に白湯(さゆ)を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、美濃紙(みのがみ)が薄(うす)く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の紫(むらさき)の花の色まで沁(し)みて写りそうであった。
 もはや、行きつくところまで行った風景でもある。


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