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鱗雲 - 牧野 信一 ( まきの しんいち )

  • 梶井基次郎/檸檬 牧野信一/地球儀☆日本文学全集☆集英社☆即決
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     一  百足凧――これは私達の幼時には毎年見物させられた珍らしくもなかつた凧である。当時は、大なり小なり大概の家にはこの百足の姿に擬した凧が大切に保存されてゐた。私の生家にも前代から持ち伝へられたといふ三間ばかりの長さのある百足凧があつた。この大きさでは自慢にはならなかつた。小の部に属するものだつた。それだと云つても子供の慰み物ではない。子供などは手を触れることさへも許されなかつたのだ。端午の節句には三人の人手をかりて厳かな凧上げ式を挙行したものである。――因縁伝説迷信も、そして何として風習であつたのかといふことも私は、凧に就いては聞き洩したので今でも何らの知識はない。花々しい凧上げの日の記憶が、たゞ漠然と残つてゐるばかりである。それにしてもあれ程凄まじかつた伝来の流行が、今はもう全くの昔の夢になつたのかと思ふと若い私は可怪(をか)しな気がする。
「ほう! そんな凧が流行したことがあつたのかね、この辺で――」
 故郷の同じ町にゐる私と同年の青年ですら、私が一寸した興味から詳しいことを知りたくなつて凧のことを訊ねたら、反(かへ)つて私が法螺でも吹いてゐるんぢやないかといふ風に空々し気な眼を輝かせてゐた。「ほんの一部分の風習だつたのだらうね。それが子供の君の眼には世界中お祭りのやうに映つたのさ。君の子供の頃まで、それ程にも未開な区域が残つてゐたのかねえ。」
「B村には僕の親類があつたのだが、あの村などは一層烈しかつたぜ。僕は祖母や母に伴れられて遥々と凧見物に出かけたものだ。」
「B村と云へば、あの村は中央電車鉄道買収されて、電車道になつてしまつたな。」
「B村が!」と私は叫んだ。
「あれを知らないの? 今は家なんて一軒もあるまい。B村なんて名称も残つてゐるかどうか。」
「そんなことはない。吾家の知合ひの青野家はちやんとある。悴のFとは今でも僕は文通してゐるんだもの。」
「一軒位ゐはあるかも知れんな。」
百足凧といふのは――」と私は、こゝで何やら感慨深さうに首を振つたが、煩瑣を忍んで、曖昧ながらにでも此方が凧の構造説明しなければならなかつた。
 凧だから勿論竹の骨に紙を貼つたものである。巨大な百足なのだ。大団扇のやうに細竹を輪にして、さうだ、丁度ピヱロオが飛び出す紙貼りの輪だ。之を百足節足の数と同じく四十二枚、それには両端に竹の脚がついてゐる、つまり団扇の柄が上下についてゐるやうなものである。その脚の尖端には夫々一束の棕梠の毛が爪の代りに結びつけてある。この四十二枚の胴片はその左右の脚を、夫々均等の間隔を保つて二条(ふたすぢ)の糸でつなぎ合せるのだ。だから胴片は水平にひら/\とする。尾は、主に銀色で長く二つに岐れてゐる。頭には金色眼球風車の仕かけになつて取りつけてあるから、らん/\と陽に映えるのである。房々と風になびく巨大な鬚は、馬の尻尾を引きぬいて結びつけたものである。
 勿論凧師と称する職業家が造るのであるが私は、製作の実際は見たことがない。十日位ひ前に凧師が来て手入れをする光景(ありさま)より他には知らない。青野家などではその手入れだけでも三ヶ月も前から凧師が滞在して準備に忙殺されてゐたさうである。爪の代りの棕梠の毛からしてその年毎にいち/\分銅に懸けて重さを計つて置かなければならなかつたのだ。紙は毎年貼り代へるところもあるし、塗り代へで済すところもあつたさうだ。いざ当日となつて、吾家の凧などは到底この仲間には入らなかつたが、主だつた持主は夫々工夫を凝らした上句の新奇を競ふのであつた。B村の当日の騒ぎなどは恰も大川の川開きのやうな賑ひだつた。前日までは堅く秘密が守られてゐたから、何んな姿の百足が現れるかと、見物人は片唾をのんで待ち構へてゐる。競争者同志の間では深夜間者を放つて敵手の工夫を窺ひにやつたなどといふ挿話も屡々伝へられた。或る持主は見物人に賄賂を贈つたり或ひは内意を含んだ数十名の味方を見物中に秘かに放つて、自家の凧が現れると同時に割れんばかりの賞讚の嘆声を放たしめて敵手の毒気を抜いてやる計画を立てた。A家の今年の凧の眼玉は本物の金だといふ噂が伝つて愕然としたB家では、にわかに胴片の鱗を悉く金箔で塗り潰した。C家では先代が採集の途中で倒れ、遺言状の個状書の一つに加へられてゐたといふ白馬尻尾の毛を、漸く今年は新しい当主が完成して百足の鬚を雪のやうな白髪に変へたといふ噂も流布された。だが反対党(議員選挙のいきさつからであるか、或ひは凧の争ひがもとになつて選挙の方も分れてゐたのか? 大凧の持主程の者は常々から幾派にも分裂してゐた。)の説に依ると、C家の主人が襷がけになつて深夜こつそりと黒い馬の尻尾胡粉で染めてゐるところを垣間見て来た者がある。


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