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横光 利一 のオススメ作品

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作品別索引

- 横光 利一 ( よこみつ りいち )

  • 横光利一全集 横光利一集 10冊 希少?
  • 現代日本文学全集36 横光利一集 筑摩書房
  • 【激安】福田清人ほか『横光利一 人と作品』
  • 横光利一 文学読本 秋冬の巻■昭和12年 初版 布装丁
  • 古本「新潮文庫、春 園」横光利一著、昭和24年発行
  • ●定本横光利一全集1 小説 初版 定価4900円
  • ●定本横光利一全集7 小説 初版 定価5500円
  • ●中古図書●日本文学全集 横光利一集 集英社
  • kj100611 旅愁 全四編 横光利一 改造社/昭和21年発行
  • 初版 春は馬車に乗って 横光利一 名著復刻全集 近代文学館 切手
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 リカ子(こ)はときどき私(わたし)の顔(かお)を盗見(ぬすみみ)するように艶(つや)のある眼(め)を上(あ)げた。私(わたし)は彼女(かのじょ)が何(な)ぜそんな顔(かお)を今日(きょう)に限(かぎ)ってするのか初(はじ)めの間(あいだ)は見当(けんとう)がつかなかったのだが、それが分(わか)った頃(ころ)にはもう私(わたし)は彼女(かのじょ)が私(わたし)を愛(あい)していることを感(かん)じていた。便利(べんり)なことには私(わたし)はリカ子(こ)を彼女(かのじょ)の良人(おっと)から奪(うば)おうという気(き)もなければ彼女(かのじょ)を奪(うば)う必要(ひつよう)もないことだ。何(な)ぜなら私(わたし)はリカ子(こ)を彼女(かのじょ)の良人(おっと)に奪(うば)われたのだからである。この不幸(ふこう)なことが幸(さいわ)いにも今頃(いまごろ)幸福(こうふく)な結果(けっか)になって来(き)たということは、私(わたし)にとっては依然(いぜん)として不幸(ふこう)なことになるのであろうかどうか、それは私(わたし)には分(わか)らない。私(わたし)はリカ子(こ)――私(わたし)の妻(つま)だったリカ子(こ)をQから奪(と)られたのはそれは事実(じじつ)だ。しかし、それは私(わたし)が彼(かれ)にリカ子(こ)を与(あた)えたのだといえばいえる。それほども私(わたし)とリカ子(こ)とQとの間(あいだ)には単純(たんじゅん)な迷(まよ)いを起(おこ)させる條(すじ)がある。それは世間(せけん)にありふれたことだと思(おも)われるとおりの平凡(へいぼん)な行状(ぎょうじょう)だが、ここに私(わたし)にとっては平凡(へいぼん)だと思(おも)えない一|点(てん)がひそんでいるのだ。人(ひと)は二人(ふたり)おればまア無事(ぶじ)だが三|人(にん)おれば無事(ぶじ)ではなくなる心理(しんり)の流(なが)れがそれが無事(ぶじ)にいっているというのは、どこか三|人(にん)の中(なか)で一人(ひとり)が素晴(すば)らしく賢(かしこ)いか誰(たれ)かが馬鹿(ばか)かのどちらかであろうように、三|人(にん)の中(なか)でこの場合(ばあい)私(わたし)が一|番(ばん)図抜(ずぬ)けて馬鹿(ばか)なことは確(たし)かなことだ。Qと私(わたし)とにいたってはことごとに私(わたし)の方(ほう)が馬鹿(ばか)な成績(せいせき)を上(あ)げているのだ。もとを洗(あら)えば私達(わたしたち)二人(ふたり)、Qと私(わたし)とは同年(どうねん)で同級(どうきゅう)で専攻科目(せんこうかもく)さえ同(おな)じだった所(ところ)へ、同(おな)じ食客(しょっかく)としてリカ子(こ)の家(いえ)の上(うえ)と下(した)とで彼女(かのじょ)を迷(まよ)わせることにかけても同様(どうよう)な注意(ちゅうい)を払(はら)っていたのだ。結晶学(けっしょうがく)の実習(じっしゅう)でダイヤモンド標本(ひょうほん)を学校(がっこう)から持(も)って帰(かえ)り、初(はじ)めてリカ子(こ)に見(み)せたのが思(おも)えばこのリカ子(こ)のわれわれ二人(ふたり)に迷(まよ)い出(だ)した初(はじ)めであった。つまり、リカ子(こ)の人生(じんせい)はダイヤモンドから始(はじ)まったのだ。そのとき私達(わたしたち)はQの部屋(へや)で今(いま)私(わたし)が下(した)でして来(き)たダイヤモンド結晶面(けっしょうめん)の測定(そくてい)について話(はな)していた。すると、リカ子(こ)は丁度(ちょうど)お茶(ちゃ)を持(も)って這入(はい)って来(き)ていつものように話(はな)し出(だ)し、そのダイヤモンドはどこの産(さん)かと質問(しつもん)した。所(ところ)が、私(わたし)にはそのダイヤモンド母岩(ぼがん)との関係(かんけい)とか産出状態(さんしゅつじょうたい)とか自然性(しぜんせい)の結晶面(けっしょうめん)とかは分(わか)っていても、その少女(しょうじょ)の最(もっと)も知(し)りたい平凡(へいぼん)なことだけは分(わか)らなかった。すると、Qは実(じつ)に私(わたし)も驚歎(きょうたん)したのであるが、直(ただ)ちにそれはミナスゲラスだといい切(き)った。私(わたし)にはミナスゲラスはどこの国(くに)にあるのかさえも分(わか)らないのに、リカ子(こ)――漸(ようや)く女学校(じょがっこう)を出(で)かかった彼女(かのじょ)に、分(わか)ろう筈(はず)もないことをいうQの心理(しんり)に、初(はじ)めは私(わたし)とて驚(おどろ)かざるを得(え)ないのだが、しかし、私(わたし)の驚(おどろ)きは忽(たちま)ち彼(かれ)への尊敬(そんけい)の念(ねん)へ変(かわ)り出(だ)して再(ふたた)び全(まった)く別(べつ)の驚(おどろ)きに変(かわ)り出(だ)したというのは、他(ほか)でもない。Qは怪(あや)しい顔(かお)をしている私(わたし)の表情(ひょうじょう)に向(むか)って投(な)げつけるように、そのダイヤモンド母岩(ぼがん)が礫岩(れきがん)であり削剥堆積(さくはくたいせき)の噴出状態(ふんしゅつじょうたい)の痕跡(こんせき)を表(あらわ)している所(ところ)を見(み)ると、オルドウィス紀(き)の噴出(ふんしゅつ)にちがいなく、母岩(ぼがん)が礫岩(れきがん)でオルドウィス紀(き)の噴出(ふんしゅつ)なら、ミナスゲラス以外(いがい)にはないではないかといい出(だ)した。私(わたし)にはミナスゲラスさえ知(し)らないのにどうしてQがそのミナスゲラスとダイヤモンドとの関係(かんけい)を知(し)っているのだろうか、これは全(まった)く驚(おどろ)く以外(いがい)にはなくなって、ふと私(わたし)はリカ子(こ)が傍(そば)にいることさえ忘(わす)れてしまい、君(きみ)のいうミナスゲラスとはいったいどこだいと訊(き)いてみた。すると、Qはこれ以上(いじょう)リカ子(こ)のいる前(まえ)で私(わたし)に辱(はずかし)い思(おも)いをさせるのを慎(つつし)むかのように黙(だま)りながら、Minas Geraesと鉛筆(えんぴつ)で書(か)いてコーヒーだといった。ははあブラジルかと私(わたし)はいったがもうそのときは遅(おそ)かった。いつも二人(ふたり)の知識(ちしき)を比(くら)べたがる年齢(ねんれい)のリカ子(こ)の前(まえ)でのこの最初(さいしょ)の敗北(はいぼく)は、人生(じんせい)の半(なか)ばを敗北(はいぼく)し続(つづ)けたのと同(おな)じことだ。私(わたし)はそれからはこの最初(さいしょ)の敗北(はいぼく)を取(と)り返(かえ)そうとして彼(かれ)の下(した)で一|層(そう)激(はげ)しく勉強(べんきょう)をし始(はじ)めたのだが、私(わたし)がすればするほどQも二|階(かい)でそれだけ勉強(べんきょう)をしているのだ。同(おな)じ量(りょう)の勉強(べんきょう)を二人(ふたり)がしているとするといつも私(わたし)の方(ほう)がはるかに彼(かれ)より勉強(べんきょう)しないことになっていく。私(わたし)がランゲを読(よ)めばQはバウエルを読(よ)んでいる。私(わたし)がフムボルトを読(よ)めば彼(かれ)はローレンツとモアッサンを読(よ)んでいる。私(わたし)が漸(ようや)くモアッサンにかかるともう彼(かれ)はウォルフとハッスリンガーにかかっているという状態(じょうたい)で、夜(よ)の目(め)も寝(ね)ずに私(わたし)が勉強(べんきょう)したとてとても彼(かれ)には及(およ)ぶことが出来(でき)ないのだ。何(なに)が悲(かな)しいといったとて自分(じぶん)の敵(てき)が頭(あたま)の上(うえ)で自分(じぶん)との距離(きょり)をますます延(の)ばしていくことほど口惜(くや)しいことはないであろう。しかし、それがあまりにかけ離(はな)れるともう私(わたし)はただ彼(かれ)を尊敬(そんけい)することだけが専門(せんもん)になり始(はじ)めた。彼(かれ)にとっては初(はじ)めから私(わたし)などは敵(てき)ではないのだ。それを愚(おろ)かしくもこちらが敵(てき)だと思(おも)ってひとりくよくよしていた自分(じぶん)の格好(かっこう)を考(かんが)えると、私(わたし)は私自身(わたしじしん)が気(き)の毒(どく)でならなくなった。殊(こと)にQには彼(かれ)を絶(た)えず凌駕(りょうが)していた敵手(てきしゅ)のAがあったのだ。AとQとはQと私(わたし)との場合(ばあい)におけるがように何(なに)かにつけてAの方(ほう)が上(うえ)になった。Qが凡水論(ネプチュニズム)にかかっているとAは凡火論(ボルカニズム)にかかっている。Qが災異論(カタストロフィズム)にかかっているとAはもうパイエルの進化論(しんかろん)にかかっているという調子(ちょうし)がQをますます勉強(べんきょう)させていたのである。しかし私(わたし)はQがAに圧迫(あっぱく)されているこの状態(じょうたい)に対(たい)して復讐(ふくしゅう)の快感(かいかん)よりも応援(おうえん)の快感(かいかん)を感(かん)じて鞭(むち)を打(う)った。ある日(ひ)の研究報告会(けんきゅうほうこくかい)でQがAに打(う)ち負(ま)かされたときなどには私(わたし)は私(わたし)がQであるかのように萎(しお)れてしまった。それは丁度(ちょうど)私(わたし)がQからミナスゲラスで刺(さ)されたときのように。QはAから岩石学(がんせきがく)の最大問題(さいだいもんだい)である岩漿分化(がんしょうぶんか)と母液(ぼえき)との関係(かんけい)の説明(せつめい)に這入(はい)って刺(さ)され出(だ)したのだが、Aは突然(とつぜん)、黒曜石(こくようせき)の結晶母液(けっしょうぼえき)となるべき硅酸(けいさん)の比重測定(ひじゅうそくてい)の方式(ほうしき)はダーウィンによって始(はじ)められたといい出(だ)したのだ。私(わたし)は無論(むろん)のことそこに並(なら)んでいた者達(ものたち)と同様(どうよう)に今(いま)までダーウィン生物学者(せいぶつがくしゃ)だとばかり思(おも)っていたQにとって、これはあまりに意外(いがい)であった。もうそうなれば今(いま)までの問題(もんだい)であった熔岩中(ようがんちゅう)の各鉱物(かくこうぶつ)の比重差(ひじゅうさ)と沈澱位置(ちんでんいち)などということにかけてはAが最(もっと)もよく知(し)っているに定(きま)っているのだ。座(ざ)はそれから次第(しだい)に結晶学(けっしょうがく)の法則(ほうそく)そのままの形(かたち)をとり始(はじ)め、その各人(かくじん)の比重(ひじゅう)に従(したが)って沈(しず)み出(だ)した。私(わたし)はQよりはるかに劣(おと)っている自分(じぶん)を考(かんが)え、そのQよりもはるかに優(すぐ)れたAを考(かんが)え、そのAと自分(じぶん)との比較(ひかく)すべくもなき素質(そしつ)の距離(きょり)を考(かんが)えると、もう自分(じぶん)の運命(うんめい)さえ判然(はんぜん)となって眼(め)の前(まえ)に現(あらわ)れ出(だ)したのだ。私(わたし)の頭(あたま)はそれからいよいよ謙遜(けんそん)になる一|方(ぽう)であった。Qに対(たい)しては勿論(もちろん)のこと、他(た)の友人(ゆうじん)や隣人(りんじん)、長上(ちょうじょう)や年少(ねんしょう)の者(もの)に対(たい)してさえも私(わたし)は頭(あたま)を上(あ)げることが出来(でき)なくなった。私(わたし)が神(かみ)のことを考(かんが)え出(だ)したのもつまりはそのときからである。人(ひと)の肉体(にくたい)が皆(みな)それぞれ尽(ことごと)く同数(どうすう)の筋肉(きんにく)と骨格(こっかく)とを持(も)っているにも拘(かかわ)らず、この素質(そしつ)の不均衡(ふきんこう)は何事(なにごと)であろうか、と考(かんが)えたのが神(かみ)への一|歩(ぽ)の私(わたし)の近(ちか)づきであった。今(いま)思(おも)えば私(わたし)がこの探索(たんさく)の方向(ほうこう)をもったということが、私達(わたしたち)友人(ゆうじん)の中(なか)での特長(とくちょう)ある素質(そしつ)であったことに気(き)がつくのだが、そのときはそれが私(わたし)の友人達(ゆうじんたち)からの敗北(はいぼく)の結果(けっか)だとばかりより思(おも)えなかった。


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