鶏 - 森 鴎外 ( もり おうがい )
石田小介が少佐参謀になって小倉(こくら)に着任したのは六月二十四日であった。
徳山と門司(もじ)との間を交通している蒸汽船から上がったのが午前三時である。地方の軍隊は送迎がなかなか手厚いことを知っていたから、石田はその頃の通常礼装というのをして、勲章を佩(お)びていた。故参の大尉参謀が同僚を代表して桟橋(さんばし)まで来ていた。
雨がどっどと降っている。これから小倉までは汽車で一時間は掛からない。川卯(かわう)という家で飯を焚(た)かせて食う。夜が明けてから、大尉は走り廻って、切符の世話やら荷物の世話やらしてくれる。
汽車の窓からは、崖(がけ)の上にぴっしり立て並べてある小家が見える。どの家も戸を開(あ)け放して、女や子供が殆(ほとん)ど裸でいる。中には丁度朝飯を食っている家もある。仲為(なかし)のような為事(しごと)をする労働者の家だと士官が話して聞せた。
田圃(たんぼ)の中に出る。稲の植附はもう済んでいる。おりおり蓑(みの)を着て手籠(たご)を担いで畔道(あぜみち)をあるいている農夫が見える。
段々小倉が近くなって来る。最初に見える人家は旭町(あさひまち)の遊廓(ゆうかく)である。どの家にも二階の欄干に赤い布団が掛けてある。こんな日に干すのでもあるまい。毎日降るのだから、こうして曝(さら)すのであろう。
がらがらと音がして、汽車が紫川(むらさきがわ)の鉄道橋を渡ると、間もなく小倉の停車場に着く。参謀長を始め、大勢の出迎人がある。一同にそこそこに挨拶をして、室町(むろまち)の達見(たつみ)という宿屋にはいった。
隊から来ている従卒に手伝って貰って、石田はさっそく正装に着更(きか)えて司令部へ出た。その頃は申告の為方(しかた)なんぞは極(き)まっていなかったが、廉(かど)あって上官に謁(えっ)する時というので、着任の挨拶は正装ですることになっていた。
翌日も雨が降っている。鍛冶(かじ)町に借家があるというのを見に行く。砂地であるのに、道普請に石灰|屑(くず)を使うので、薄墨色の水が町を流れている。
借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗(きれい)な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。真中に大きな百日紅(さるすべり)の木がある。垣の方に寄って夾竹桃(きょうちくとう)が五六本立っている。
車から降りるのを見ていたと見えて、家主が出て来て案内をする。渋紙(しぶがみ)色の顔をした、萎(しな)びた爺(じい)さんである。
石田は防水布の雨覆(あまおおい)を脱いで、門口を這入(はい)って、脱いだ雨覆を裏返して巻いて縁端(えんばな)に置こうとすると、爺さんが手に取った。石田は縁を濡らさない用心かと思いながら、爺さんの顔を見た。爺さんは言訣(いいわけ)のように、この辺(へん)は往来から見える処(ところ)に物を置くのは危険だということを話した。石田が長靴を脱ぐと、爺さんは長靴も一しょに持って先に立った。
石田は爺さんに案内せられて家を見た。この土地の家は大小の違(ちがい)があるばかりで、どの家も皆同じ平面図に依(よ)って建てたように出来ている。門口を這入って左側が外壁(そとかべ)で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側とに分れていて、裏側が勝手になっているのである。
東京から来た石田の目には、先(ま)ず柱が鉄丹(べんがら)か何かで、代赭(たいしゃ)のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。しかし不快だとも思わない。唯この家なんぞは建ててから余り年数を経たものではないらしいのに、何となく古い、時代のある家のように思われる。それでこんな家に住んでいたら、気が落ち付くだろうというような心持がした。
表側は、玄関から次の間(ま)を経て、右に突き当たる西の詰(つめ)が一番好い座敷で、床の間が附いている。爺さんは「一寸(ちょっと)|御免なさい」と云って、勝手へ往(い)ったが、外套(がいとう)と靴とを置いて、座布団と煙草盆(たばこぼん)とを持って出て来た。そして百日紅の植わっている庭の方の雨戸が疎(まば)らに締まっているのを、がらがらと繰り開けた。
雨がどっどと降っている。これから小倉までは汽車で一時間は掛からない。川卯(かわう)という家で飯を焚(た)かせて食う。夜が明けてから、大尉は走り廻って、切符の世話やら荷物の世話やらしてくれる。
汽車の窓からは、崖(がけ)の上にぴっしり立て並べてある小家が見える。どの家も戸を開(あ)け放して、女や子供が殆(ほとん)ど裸でいる。中には丁度朝飯を食っている家もある。仲為(なかし)のような為事(しごと)をする労働者の家だと士官が話して聞せた。
田圃(たんぼ)の中に出る。稲の植附はもう済んでいる。おりおり蓑(みの)を着て手籠(たご)を担いで畔道(あぜみち)をあるいている農夫が見える。
段々小倉が近くなって来る。最初に見える人家は旭町(あさひまち)の遊廓(ゆうかく)である。どの家にも二階の欄干に赤い布団が掛けてある。こんな日に干すのでもあるまい。毎日降るのだから、こうして曝(さら)すのであろう。
がらがらと音がして、汽車が紫川(むらさきがわ)の鉄道橋を渡ると、間もなく小倉の停車場に着く。参謀長を始め、大勢の出迎人がある。一同にそこそこに挨拶をして、室町(むろまち)の達見(たつみ)という宿屋にはいった。
隊から来ている従卒に手伝って貰って、石田はさっそく正装に着更(きか)えて司令部へ出た。その頃は申告の為方(しかた)なんぞは極(き)まっていなかったが、廉(かど)あって上官に謁(えっ)する時というので、着任の挨拶は正装ですることになっていた。
翌日も雨が降っている。鍛冶(かじ)町に借家があるというのを見に行く。砂地であるのに、道普請に石灰|屑(くず)を使うので、薄墨色の水が町を流れている。
借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗(きれい)な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。真中に大きな百日紅(さるすべり)の木がある。垣の方に寄って夾竹桃(きょうちくとう)が五六本立っている。
車から降りるのを見ていたと見えて、家主が出て来て案内をする。渋紙(しぶがみ)色の顔をした、萎(しな)びた爺(じい)さんである。
石田は防水布の雨覆(あまおおい)を脱いで、門口を這入(はい)って、脱いだ雨覆を裏返して巻いて縁端(えんばな)に置こうとすると、爺さんが手に取った。石田は縁を濡らさない用心かと思いながら、爺さんの顔を見た。爺さんは言訣(いいわけ)のように、この辺(へん)は往来から見える処(ところ)に物を置くのは危険だということを話した。石田が長靴を脱ぐと、爺さんは長靴も一しょに持って先に立った。
石田は爺さんに案内せられて家を見た。この土地の家は大小の違(ちがい)があるばかりで、どの家も皆同じ平面図に依(よ)って建てたように出来ている。門口を這入って左側が外壁(そとかべ)で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側とに分れていて、裏側が勝手になっているのである。
東京から来た石田の目には、先(ま)ず柱が鉄丹(べんがら)か何かで、代赭(たいしゃ)のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。しかし不快だとも思わない。唯この家なんぞは建ててから余り年数を経たものではないらしいのに、何となく古い、時代のある家のように思われる。それでこんな家に住んでいたら、気が落ち付くだろうというような心持がした。
表側は、玄関から次の間(ま)を経て、右に突き当たる西の詰(つめ)が一番好い座敷で、床の間が附いている。爺さんは「一寸(ちょっと)|御免なさい」と云って、勝手へ往(い)ったが、外套(がいとう)と靴とを置いて、座布団と煙草盆(たばこぼん)とを持って出て来た。そして百日紅の植わっている庭の方の雨戸が疎(まば)らに締まっているのを、がらがらと繰り開けた。
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- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%90X%89%a8%8aO+%8c%7b&sid=000
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