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鼠坂 - 森 鴎外 ( もり おうがい )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 小日向(こびなた)から音羽(おとわ)へ降りる(ねずみざか)と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。台町の方から坂の上までは人力車が通うが、左側に近頃(ちかごろ)刈り込んだ事のなさそうな生垣を見て右側に広い邸跡(やしきあと)を大きい松が一本我物顔に占めている赤土地盤を見ながら、ここからが坂だと思う辺まで来ると、突然勾配(こうばい)の強い、狭い、曲りくねった小道になる。人力車に乗って降りられないのは勿論(もちろん)、空車(からぐるま)にして挽(ひ)かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上(あまあ)がりなんぞにはむずかしい。鼠坂の名、真に虚(むな)しからずである。
 その松の木の生えている明屋敷(あきやしき)が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石(みかげいし)を運びはじめた。音羽の通まで牛車で運んで来て、鼠坂の傍(そば)へ足場を掛けたり、汽船に荷物を載せる Crane(クレエヌ) と云うものに似た器械を据え附けたりして、吊(つ)り上げるのである。職人が大勢|這入(はい)る。大工は木を削る。石屋は石を切る。二箇月立つか立たないうちに、和洋折衷とか云うような、二階家が建築せられる。黒塗の高塀が繞(めぐ)らされる。とうとう立派邸宅出来上がった。
 近所の人は驚いている。材木が運び始められる頃から、誰(だれ)が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵(ふかぶち)さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だろうと疑っている。そのうち誰やらがどこからか聞き出して来て、あれは戦争の時満洲で金を儲(もう)けた人だそうだと云う。それで物珍らしがる人達が安心した。
 建築出来上がった時、高塀と同じ黒塗にした門を見ると、なるほど深淵と云う、俗な隷書で書いた陶器の札が、電話番号の札と並べて掛けてある。いかにも立派な邸ではあるが、なんとなく様式離れのした、趣味の無い、そして陰気な構造のように感ぜられる。番町の阿久沢とか云う家に似ている。一歩を進めて言えば、古風な人には、西遊記怪物の住みそうな家とも見え、現代的な人には、マアテルリンクの戯曲にありそうな家とも思われるだろう。
 二月十七日の晩であった。奥の八畳の座敷に、二人の客があって、酒|酣(たけなわ)になっている。座敷極めて殺風景出来ていて、床の間にはいかがわしい文晁(ぶんちょう)の大幅(たいふく)が掛けてある。肥満した、赤ら顔の、八字|髭(ひげ)の濃い主人を始として、客の傍(そば)にも一々毒々しい緑色の切れを張った脇息(きょうそく)が置いてある。杯盤の世話を焼いているのは、色の蒼(あお)い、髪の薄い、目が好く働いて、しかも不愛相な年増(としま)で、これが主人の女房らしい。座敷から人物まで、総て新開地料理店で見るような光景を呈している。
「なんにしろ、大勢行っていたのだが、本当に財産を拵(こしら)えた人は、晨星蓼々(しんせいりょうりょう)さ。戦争が始まってからは丸一年になる。旅順落ちると云う時期に、身上(しんしょう)の有るだけを酒にして、漁師仲間大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事(しごと)は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだから、旨(うま)く行ったのだ。」こう云った一人の客は大ぶ酒が利いて、話の途中で、折々舌の運転が悪くなっている。渋紙のような顔に、胡麻塩鬚(ごましおひげ)が中伸(ちゅうの)びに伸びている。支那語通訳をしていた男である。
「度胸だね」と今一人の客が合槌(あいづち)を打った。「鞍山站(あんざんてん)まで酒を運んだちゃん車(ぐるま)の主(ぬし)を縛り上げて、道で拾った針金を懐(ふところ)に捩(ね)じ込んで、軍用電信を切った嫌疑者にして、正直憲兵を騙(だま)して引き渡してしまうなんと云う為組(しくみ)は、外のものには出来ないよ。」こう云ったのは濃紺のジャケツの下にはでなチョッキを着た、色の白い新聞記者である。
 この時|小綺麗(こぎれい)な顔をした、田舎出らしい女中が、燗(かん)を附けた銚子(ちょうし)を持って来て、障子を開けて出すと主人が女房に目食(めく)わせをした。女房銚子を忙(せわ)しげに受け取って、女中に「用があればベルを鳴らすよ、ちりんちりんを鳴らすよ、あっちへ行ってお出(いで)」と云って、障子を締めた。
 新聞記者は詞(ことば)を続(つ)いだ。「それは好(い)いが、先生自分で鞭(むち)を持って、ひゅあひゅあしょあしょあとかなんとか云って、ぬかるみ道を前進しようとしたところが、騾馬(らば)やら、驢馬(ろば)やら、ちっぽけな牛やらが、ちっとも言うことを聞かないで、綱がこんがらかって、高梁(こうりゃん)の切株だらけの畑中立往生をしたのは、滑稽(こっけい)だったね。」記者は主人の顔をじろりと見た。
 主人は苦笑をして、酒をちびりちびり飲んでいる。
 通訳あがりの男は、何か思い出して舌舐(したなめ)ずりをした。「お蔭で我々が久し振に大牢(たいろう)の味(あじわ)いに有り附いたのだ。酒は幾らでも飲ませてくれたし、あの時位僕は愉快だった事は無いよ。


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