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C先生への手紙 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

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       雑信(第一)   C先生――。  其後は大変御無沙汰致して仕舞いました。東京も、さぞ暑くなった事でございましょう。白い塵のポカポカ立つ、粗雑なペンキ塗の目に痛く反射する其処いらの路を想像致します。御丈夫いらっしゃいますでしょう。
 此間中から、私の思って居る種々の事を申上度いと思って居りましたが、つい延び延びに成って仕舞いました。決して忘れて居たのではございませんが、近頃、私の生活の上に起った変動は、非常に大きく私の精神上に波動を与えました。決して混乱ではございません。が、その大きく力強い濤が、勇ましく打寄せて、或程度まで落付いて仕舞うまで、私は口を緘んで、じっと自分の魂の発育を見守って居たのでございます。
 家を離れて来てから、時間としては、まだ僅か半年位ほか経っては居りません。
 けれども、海を境にして、私の「彼方」でした生活と、今「此処」で為る生活との間には、殆ど時間測定する事の出来ない差がございます。眼が少しは物象を見るようになりました。耳が微かながら、箇々の声を聴くようになりました。つまり、私は漸々自分に生きて来たのでございましょう。真個に足を地につけて、生き物として生き始めたとでも申しましょうか。今までの私は、生きると云う事を生きて来たのだと申さずには居られません。
 概念と、只、自分のみの築き上げた象牙の塔に立て籠って、ちょいちょい外を覗きながら感動して居りました。従って、私は何に感動して居るのか、又するべき筈だかと云う事、又その感動の種類は大抵分って居りました。ところが、人間が活きて動いて居る世の中はなかなか其那、整然たるものでもなければ、又其程、明るいものでもございません。
 人と人と鼻を突き合わせて見ると、何と云う人臭さが分る事でございましょう。
 人間の醜さ、人間の有難さ、其は只、彼等の仲間である人間のみが知る事を得ます。
 頭を下げても下げても、下げ切れない程、あらたかな人の裡には、憎んでも憎み切れない或物が倶に生きて居ります。
 苦笑するような心持は、十や十一子供には分らない心持ではございますまいか。
 丁度、雨にそぼぬれた獣物が、一つところにじっと団り合って、お互の毛の臭い水蒸気に混って漂う息の臭いを嗅ぎ合うような親密さ、その直接な――種々な虚飾や、浅薄な仮面をかなぐり捨てて、持って生れた顔と顔とで向い合う心持は、私の今まで知らなかった、其れで居て知らなければならない事だったのでございます。
 私は、アメリカへ来たから斯う成れたのではございません。場所の何処に拠らず、私を総ての掩護から露出させた圏境に依ります。
 嘗て知らない苦労にも会いましょうし、光栄も感じます。その種々相を透して、さながら、プリズムの転廻を見るように、種々雑多な人間性が現われて参ります。
 その一色をも逃すまいとして、私はどんなに緊張して居りますでしょう。目前に現われて居るのは、本の上に印刷された理論的な文字ではございません。生きて、光線微分子とともに動いて居ります。だから、一寸でもじっとしては居りません。今出たかと思うともう消えます、同じ物が再現したかと思っても、其の微妙色彩の何処にか、必ず変化が来て居ります。其が、完く、泣虫寺のおしょうの見たように踊り廻り、とっ組み合い、千変万化の姿態で私の前に現れます。
 その一つ一つに、何か不具なところが在るように思われます。この不具は、存在の全部を否定するものではございませんが、兎に角何か不具なところがある。そして、時々其が激しく油を切らして軋み合います。
 その恐ろしい騒音は、地上の何処へ行っても聴えるものではございますまいか。
 其と同時に、此の騒音最中から、何等の諧調を求めて、微かながら認め得た一筋の音律を、急がずうまず辿って行く、僅かながら、高く澄んだ金属性の調音も亦、天の果から果へと伝って参ります。
 日本にも馬鹿は居ります。アメリカにも大馬鹿が居ります。
 粛(おごそ)かに心を潜めて思う真心価値は、其を表現する言葉の差で違うべきものではございますまい。
 誰も、我が国、我国と怒鳴りながら、大汗を掻いて騒ぎ立てないでも好ろしゅうございましょう。又誰も、「彼国」彼の国と指差しながら、周章ふためいて、喚きながら馳けずり廻らないでも好いのではございますまいか。
 矢鱈に興奮許りしても、人間の魂が浄められるものでもございますまい。
 人間を創る者は人間でございます。創った人間を量る者も亦、人間でございます。
 心が、真実に豊かでありとうございます。その悠久真実さが落付いて人間の種々相を観て慾しゅうございます。
          ――○――
 人が、物を観る時に、唯一不二な心に成って、その対象に対すると云う事は大切でございましょう。


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