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An Incident - 有島 武郎 ( ありしま たけお )

  • ○有島武郎『カインの末裔クララの家出』岩波文庫/昭15年初版
  • ○有島武郎『小さき者へ生まれ出づる悩み』岩波文庫/昭15年初版
  • 生れ出る悩み 有島武郎 初版本復刻 近代文学の名作
  • ●即決!復刻全集近代文学館ほるぷhon61有島武郎 生れ出る悩み
  • 「有島武郎(新潮日本文学アルバム9)」遠藤祐編集、1984新潮社
  • 有島武郎「惜しみなく愛は奪う」(文庫本)
  • ★即決 【或る女(下)】 有島武郎 古典
  • ●中古図書●日本文学全集 有島武郎集 集英社
  • ★即決 【或る女(下)】 有島武郎 古典
  • 有島武郎「小さき者へ」角川文庫昭和42年発行
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 彼はとう/\始末に困(こう)じて、傍(かたはら)に寝てゐる妻をゆり起した。妻は夢心地に先程から子供のやんちやとそれをなだめあぐんだ良人の声とを意識してゐたが、夜着に彼の手を感ずると、警鐘を聞いた消防夫の敏捷(びんせふ)さを以て飛び起きた。然し意識ぼんやりして何をするでもなくそのまゝ暫くぢつとして坐つてゐた。
 彼のいら/\した声は然し直ぐ妻を正気に返らした。妻は急に瞼(まぶた)の重味が取り除(の)けられたのを感じながら、立上つて小さな寝床の側に行つた。布団から半分身を乗り出して、子供を寝かしつけて居た彼は、妻でなければ子供が承知しないのだと云ふことを簡単に告げて、床の中にもぐり込んだ。冬の真夜中の寒さは両方の肩を氷のやうにしてゐた。
 妻がなだめたならばと云ふ期待は裏切られて、彼は失望せねばならなかつた。妻がやさしい声で、真夜中だからおとなしくして寝入るやうにと云へば云ふほど、子供は鼻にかゝつた甘つたれ声で駄々をこねだした。枕を裏返せとか、裏返した枕が冷たいとか、袖(そで)で涙をふいてはいけないとか、夜着が重いけれども、取り除(の)けてはいけないとか、妻がする事、云ふ事の一つ/\にあまのじやくを云ひつのるので、初めの間は成るべく逆(さか)らはぬやうにと、色々云ひなだめてゐた妻も、我慢がし切れないと云ふ風に、寒さに身を慄(ふる)はしながら、一言二言叱つて見たりした。それを聞くと子供はつけこむやうに殊更声を曇らしながら身悶(みもだ)えした。
 彼は鼻の処まで夜着に埋まつて、眼を大きく開いて薄ぼんやりと見える高い天井を見守つたまゝ黙つてゐた。晩(おそ)くまで仕事をしてから床に這入(はい)つたので、重々しい睡気(ねむけ)が頭の奥の方へ追ひ込められて、一つのとげ/\した塊的(かたまり)となつて彼の気分を不愉快にした。
 彼は物を云はうと思つたが面倒なので口には出さずに黙つてゐた。
 十分。
 十五分。
 二十分。
 何んの甲斐(かひ)もない。子供は半睡の状態からだん/\と覚めて来て、彼を不愉快にしてゐるその同じ睡気(ねむけ)にさいなまれながら、自分を忘れたやうに疳(かん)を高めた。
 斯うしてゐては駄目だ、彼はさう思つて又むつくり起き上つて、妻の傍にひきそつて子供に近づいて見た。子供はそれを見ると、一種の嫉妬(しつと)でも感じたやうに気狂ひじみた暴れ方をして彼の顔を手でかきむしりながら押し退(の)けた。数へ年の四つにしかならない子供の腕にも、こんな時には癪にさはる程意地悪い力が籠(こも)つてゐた。
「マヽちやんの傍に来ちやいけない」
 さう云つて子供は彼を睨(にら)めた。
 彼は少し厳格に早く寝つくやうに云つて見たが、駄目だと思つて又床に這入つた。妻はその間黙つたまゝで坐つて居た。而して是れほど苦心して寝かしつけようとしてゐるのに、その永い間、寒さの中に自分一人だけ起して置いて、知らぬげに臥(ね)てゐる彼を冷やかな心になつて考へながら、子供の仕打ちを胸の奥底では justify してゐるらしく彼には考へられた。
 彼は子供の方に背を向けて、そつちには耳を仮(か)さずに寝入つてしまはうと身構へた。
 子供の口小言(くちこごと)は然し耳からばかりでなく、喉(のど)からも、胸からも、沁み込んで来るやうに思はれた。彼は少しづゝいら/\し出した。しまつたと思つたけれども、もう如何(どう)する事も出来ない。是れが彼の癖である。普段滅多に怒ることのない彼には、自分怒りたいと思つた様々場合を、胸の中の棚のやうな所に畳んで置いたが、どうかすると、それが下らない機会に乗じて一度に激発した。さうなると彼は、彼自身を如何(どう)する事も出来なかつた。はら/\して居る中に、その場合々々に応じて、一番危険な、一番破壊的な、一番馬鹿らしい仕打ちを夢中でして退(の)けて、後になつてから本当に臍(ほぞ)を噛みたいやうなたまらない後悔に襲はれるのだ。
 妻は、相かはらず煮え切らない小言を、云ふでもなし云はぬでもなしと云ふ風で、その癖中々しつツこく、子供を相手にしてゐた。いら/\してゐる彼には、子供がいら/\してゐる訳が胸に徹(こた)へるやうだつた。あんなにしんねりむつつりと首(はじめ)も尻尾もなく、小言を聞かされてはたまるものか、何んだつてもつとはつきりしないんだ、と思ふと彼の歯は自然(ひとりで)に堅く噛み合つた。彼はさう堅く歯を噛み合はして、瞼(まぶた)を堅く閉ぢて、もう一遍寝入らうと努(つと)めて見た。塊的(かたまり)になつた睡気は然し後頭の隅に引つ込んで、眼の奥が冴(さ)えて痛むだけだつた。
「早く寝ないとマヽちやんは又あなたを穴に入れますからね」
 始めは可なり力の籠つた言葉だと思つて聞いてゐると仕舞には平凡な調子になつてしまふ。子供はそんな言葉には頓着する様子もなく、人を焦立(いらだ)たせるやうに出来泣き声を張り上げて、夜着を踏みにじりながら泣き続けた。彼はとう/\たまらなくなつて出来るだけ声の調子を穏当にした積りで、
「そんなに泣かせないだつて、もう少しやりやうがありさうなものだがな」
 と云つた。がそれが可なり自分の耳にもつけ/\と聞こえた。妻は彼の言葉注意されても子供を取扱ふ態度を改める様子もなく、黙つたまゝで、無益にも踏みはぐ夜着を子供に着せようとしてばかりゐた。
「おい、どうかしないか」
 彼の調子はます/\尖(とが)つて来た。彼はもう驀地(まつしぐら)に自分の癇癪(かんしやく)に引き入れられて、胸の中で憤怒の情がぐん/\生長して行くのが気持がよかつた。彼は少し慄(ふる)へを帯びた声を張り上げて怒鳴り出した。
「光(みつ)! まだ泣いてるか――黙つて寝なさい」
 子供は気を呑まれて一寸(ちよつと)静かになつたが、直ぐ低い啜(すゝ)り泣きから出直して、前にも増した大袈裟(おほげさ)な泣き声になつた。
「泣くとパヽが本当に怒(おこ)るよ」
 まだ泣いてゐる。
 その瞬間かつと身体中の血が頭に衝(つ)き上つたと思ふと、彼は前後の弁(わきま)へもなく立上つた。


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